16C朝鮮の性理学者、李承曾が祀られている書院遺跡「汶湖社」と「倡義碑」(慶州歴史地域 月城地区にて)
문호사 汶湖社は、朝鮮中期の性理学者、관란(觀瀾) 이승증(李承曾)[1515ー1599]が祭られている書院遺跡で、彼の忠孝精神を奉ずるために造られた。彼は、新羅建国の功臣にして慶州李氏の始祖である李謁平(リ・アルピョン)の子孫として、より有名である。1592年、壬辰倭乱が勃発すると、78歳の老齢にもかかわらず慶山 慈仁で崔東輔や崔汝琥とともに義兵を挙げ、敵陣を打ち破り村を守ったといわれる。さらに大邱広域の士林にも檄文を送り、「儒者には忠恕と孝悌があるだけだ。どうして国がこのように危機に迫られているのに、義気を発揮しないでいられるのか」と呼びかけた。それで多くの若いソンビたちも彼に従った。著書には、九容箴、九思箴、六有箴、三畏箴、造化論、易論、詩格論などのほか、30篇の詩を残した。
觀瀾李先生の倡義碑は、亀(正確には贔屓という怪力を有する霊獣)をかたどった台座、いわゆる亀趺(きふ)の上に、碑文を刻んだ碑身をのせ、その上に二頭の竜が向かい合っているすがたの螭首(ちしゅ)をのせた本格的なつくりの碑で、私は一目見てその壮観さに驚いた。
日本に帰国後、韓国史の本をパラパラとめくっていたら、広島平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑の写真が載っていて、それを見た瞬間、慶州で見たあの觀瀾李先生の倡義碑と同じ形状であることに気がついた。
いろいろ調べた結果、この亀趺と螭首を備えた碑制は、東アジアに共通の一つの文化であることが分かった。もともとは古代中国発祥で、隋唐時代に盛行し、朝鮮半島にまで伝えられたが、日本ではどういうわけか古代・中世には渡ることがなく、ずっと年代が下って近世以降、特に江戸時代以降に、明から渡来した禅僧・隠元隆琦の開いた萬福寺(京都府宇治市に所在。坂口安吾が「日本文化私観」(1942) の中の「三 家に就て」で「万福寺の斎堂(食堂)は堂々たるものであり、その普茶(ふちゃ)料理は天下に名高いものである」と述べたそのお寺である)に端を発して各地方に波及していったようである。
亀趺でかたどられている「贔屓」の語源については以下の阿辻哲次さん(漢字文化研究所所長)の記事が分かりやすい。
小泉八雲が出雲大社の唐銅の馬や龍の彫刻など、夜中に動き回ると言い伝えられるもののうち、「一番ぞっとする」と表現した月照寺の「夜歩く大亀」も、この螭首・亀趺という装飾のスタイルを兼ね備えた石碑である(『知られぬ日本の面影』第11章「杵築(きづき)雑記」)。江戸時代後期の大名茶人として名高い松江藩松平家7代藩主・松平治郷(はるさと)(不昧(ふまい)公)が父である松平宗衍(むねのぶ)の長寿を祈願して奉納したものだ。
江戸東京博物館に向かう途中に植え込みのなかに徳川家康の銅像が建っているが、それも亀趺のスタイルだった。この銅像は、江戸東京博物館の開館を記念して社団法人江戸消防記念会から1994年に寄贈されたもの。
韓国における亀趺の遺跡は、武烈王陵の太宗武烈大王之碑や、その他の墳墓の前にもみられるし、また狼山の麓にある文武王の時代に建立された四天王寺跡や南山の昌林寺跡・天龍寺跡などの寺院の遺跡にも、慶州の芬皇寺跡の幢竿の支柱にも、海印寺四溟大師石蔵碑にも、南原にある萬人義塚にもみられ、さらには国立慶州博物館の前庭に双亀連結の亀趺もみられる。
(慶州歴史地域 月城地区にて。汶湖社、倡義碑。2019.8.1.撮影)