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坂口安吾「ピエロ伝道者」〜芸術の本領はめいめいの器に従って「一途」を歌い上げること〜

2年前の早朝読書会で扱った坂口安吾の「ピエロ伝道者」(1931年)で示される芸術観に共感を覚えた。『青い馬』創刊号に掲載された弱冠24歳の安吾の堂々たるマニフェストである。印象深い冒頭の星取棹の笑い話。梅雨どきの夜空の晴れ間に星を見つけた嬉しさから一心不乱に長棹を振り廻して星を取ろうとする小坊主。そこに賢しらな注釈を加えてはいけない。「大人」の反省を促すことを意図したり、泪や感慨の裏打ちによって笑いを担ぎ出すような「奇術」を弄して「悲しき笑い」としてナンセンスを作り出そうとする当世流のナンセンス文学は、そのために「芸術を下品に」し、笑いを「騒がしいものに」しており、そもそもナンセンスの域にさえ達していないと安吾はバッサリ斬って捨てる。芸術にとって本質的なことは、めいめいの器にしたがって、笑いであれなんであれ、素直な、噓偽りのない「一途」を歌い上げることである。《すべて「一途」がほとばしるとき、人間は「歌う」ものである。その人その人の容器に順って、悲しさを歌い、苦しさを歌い、悦びを歌い、笑いを歌い、無意味を歌う。それが一番芸術に必要なのだ。これ程素直な、これ程素朴な、これ程無邪気なものはない。この時芸術は最も高尚なものになる。》。それぞれ各人の人柄にしたがって、ほとばしる「一途」に、安吾は芸術としての真正な何か、芸術の本源的な契機を見出している。「一途」であれば「悲しき笑い」であっても「正しい」とされる。つまり安吾は「泪」そのものを否定しているわけではなく、表現者が真摯で「一途」な表現欲求を、自己自身の内に駆動力として持たぬまま、いわば俗情と結託して、涙と滑稽の混淆物を作り出すような「無理な奇術」を芸術の真髄をおとしめるものとして批判しているのだろう。少し文脈は異なるが、かつて江藤淳が辻邦生の歴史小説『背教者ユリアヌス』を「フォニイ(phony)だ」と批判したことがあるが、その際に《内に燃えさかる真の火を持たぬまま文を書き詩を作る人間は、(…)つねにフォニイであろう。》(江藤淳「『フォニイ』考」(1974年))と評言した江藤の言う「内に燃えさかる真の火」は安吾の言う「一途」と一脈相通ずるものがあるかもしれない。この「一途」は翌年の「FARCEに就て」(1932年)では「高い精神」と言い換えられることになる。

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