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還暦過ぎ爺の青春日記1

紗倉まなさんに感化されて始めたNOTEでの思い出の綴りも、ついに現在に追いつき、先週、最終回を迎えました。これからは、心に残ったことがあれば、不定期に投稿していくつもりです。
このNOTEを始めたきっかけは、紗倉まなさんのNOTE(2023年11月3日)でした。過去に書いてきた番外編や思い出と重複する部分もありますが、その変遷を爺の青春日記として改めてまとめておこうと思います。
私の思春期には、今では当たり前のコンビニも携帯電話もインターネットも存在しない時代でした。エロ情報を得るための主要な手段は、男性向け雑誌「平凡パンチ」や「週刊プレイボーイ」などで、テレビでは深夜11時頃から放送される「11PM」や「23時ショー」、そして「独占!男の時間」などの大人向け番組がありました。中学生の頃には、親にバレないようにこっそり深夜番組を見るのが楽しみのひとつでした。
さらに、エッチな漫画やアニメも多く、代表的なものとしては「ハレンチ学園」や「キューティーハニー」、そして「不思議なメルモ」などがありました。
当時、18禁のエロ本は他の雑誌と区別するためにビニール袋に包まれていましたが、コンビニが無かったので本屋で購入するしかありませんでした。18歳未満には身分証明書の提示が求められ、なかなかハードルが高かったものです。
そんな中、ビニ本の自動販売機は貴重な存在でした。路地裏に設置されており、周囲の目を気にせず、昼間でも気軽に購入できました。しかし、週刊誌が200円程度の時代にビニ本は1000円以上もする高価なもので、中高生にとっては手が届きにくいものでした。ネットも無かった時代、エロ本の記事や友達との噂話が、貴重な情報源だったのです。

毛が生え始めた頃には、包茎や自慰の話題が友達の間でよく出るようになりました。私自身も、最初は毛が生えても皮をかぶったままで、自慰をするたびに無理やり剥いていました。チンカスが溜まっていて、部屋に漂うあの独特の匂いを今でも鮮明に思い出します。

「ミカンで自慰をすると気持ちいい」という噂も耳にしましたが、実際に試してみると痛みが強く、全く気持ち良くありませんでした。しかし、匂いが抑えられるという点では柑橘系の香りが自慰に適していると感じ、どこか特別な体験として残っています。

時は流れ、還暦を迎えた今でも、週に一度は紗倉まなさんのお世話になっています。彼女の存在は私にとって特別で、現役で長く続けていただき、私が棺桶に入るその日まで楽しませてもらいたいと願っています。

当時のビニ本には、エロ写真を個人で販売する広告も掲載されていました。インターネットが無い時代だったので、現金の代わりに千円分の切手を封筒に入れて送ることで、生写真を手に入れることができました。
しかし、送られてきた写真には、肝心の股の部分が切り取られており、次回の購入用パンフレットが同封されていたことを思い出します。価格は1万円ほどだったと記憶していますが、中学生の私には手が届かないものでした。
このように、インターネットが無い時代には情報を得る手段や楽しみ方が限られていましたが、それでも工夫を凝らして楽しんでいた青春の日々を懐かしく思います。
高校1年の夏休みに、ヨーロッパに遊びに行っており、本物の”ペントハウス”と”プレイボーイ”と得体の知れないエロ雑誌を購入しており、その時に無修正エロ写真を堪能したので、その後は、このような騙しのエロ写真には興味はなくなりました。
完全なマグアイシーンは少なかったですが、大陰唇のアップまで映してありました。
女優さんによって、大きさや形が結構違い、金色の陰毛もあり、髪の毛と陰毛の色が異なるなど、エロさより、面白く感じたと記憶しています。
男性器は、長いイメージで、勃起している写真はなかったので、洋物AVのような大きさは感じませんでした。
当時、ペントハウスやプレイボーイをクラスで回し読みして、みんな楽しんでいましたが、先生に見つかり職員室に呼び出されたことを今でも覚えています。呼び出されたのは担任ではなかったため、私が海外に行ったことを知らず、「自分で買ってきた」と言っても信じてもらえませんでした。しつこく、闇販売からの購入の危険性を説かれたのですが、担任が来て私が本当に海外に行っていたことが分かると、先生はバツの悪そうな顔で本を返してくれました。
エロ本を回し読んだことで叱られるはずが、話の論点がずれて助かったという、今思えば面白い思い出です。
当時の先生方は個性が強く、厳しい存在でしたが、自分の間違いを認めてくれる一面もあり、親や生徒との信頼関係はしっかりしていたと感じます。
親が学校に呼び出されることはあっても、学校内での出来事に親が口を出すことはほとんどなく、生徒たちも危険そうな先生には近づかず、うまく自分たちで対処していました。

進学校だったため、1年生の時には成績上位100名が校内に張り出されていました。
公立の学校ということもあり、2年生になると名前は消えて点数だけの発表になりましたが、それでも序列ができて、落ちこぼれも生じました。
しかし、みんなその状況を受け入れていて、今のような陰湿ないじめはありませんでした。これは進学校あるあるの話かもしれませんが、当時は良き時代だったと感じます。

無修正雑誌を見た影響かもしれませんが、ビニ本よりも“サスペンス&ミステリー SMマガジン”に夢中になっていました。このSM系の月刊誌は、写真はなく、エロティックな挿絵と文章が中心でしたが、18禁ではなく、学生でも普通に購入できたため、私にとっては愛読書となり、部屋にはずらりと並んでいました。中高生時代のこうした経験が影響しているのか、アラカンとなった今でもS系のエロが好みであることは否めません。
1970年代後半、オイルショックの影響でエロ系の深夜番組が次々に休止となり、私は成人映画にその欲求の捌け口を見出すようになりました。
高校3年生になると見た目も大人びてきたので、日活ロマンポルノのオールナイト上映によく足を運びました。高校生であることは察していたはずですが、大人料金を払えば暗黙の了解で入場できるという、いわばウィンウィンの関係でした。
実際には、家から歩いて5分ほどの場所に映画館があり、顔見知りのスタッフもいましたが、特に問題視されることもありませんでした。
今では、そうした行動が目撃されればSNSなどで瞬時に拡散されそうですが、当時は何も問題を起こさなければ黙認される、のんびりとした良き時代でした。
また、「時間ですよ」や「独占!男の時間」など、テレビでも普通に裸を見られる時代でした。今思うと、あの頃は随分と自由で穏やかな時代だったと感じます。
1976年にビデオデッキが発売され、1980年頃には価格も手頃になり、私も就職を機に1台購入しました。これにより、映画やアニメはもちろん、アダルトビデオもVHS形式で手軽に楽しめるようになったのです。当時、裏ビデオも流通していて、「洗濯屋ケンちゃん」には本当にお世話になりました。
1990年にはレンタルビデオが普及し、それまで1本1万円以上もした作品が、数百円で借りられるようになりました。
特に映画に関しては、CMがなく、テレビ放映よりも早くレンタルが始まるため、レンタルビデオにどんどんシフトしていきました。もちろん、映画館の画質や迫力には勝てませんでしたが、エロ作品に関してはビデオ鑑賞が主流になり、自宅でいつでも観られる便利さがあり、自慰にも利用しやすくなり、とても重宝しました。

1983年、ファミコンが発売され、特に1986年にリリースされたロールプレイングゲーム「ドラゴンクエスト」にすっかりハマってしまい、朝までゲームをする日々が続きました。
ゲームの途中で中断しても、復活呪文というパスワードを使って再開できましたが、ドラクエ1では20文字、ドラクエ2では52文字もの長いパスワードを正確にメモしなければならず、少しでも間違えると再開できないという苦労がありました。
当時はデジカメやスキャナーなど便利なものはなく、手書きでメモを取るしかなかったため、間違いが多発しました。後にゲームカセットにセーブ機能がついた時は、まさに革命的な出来事でした。
さらに1年後には、「ファイナルファンタジー」というもう一つの人気RPGが登場し、「ドラゴンクエスト」と並んで40年以上にわたって新作が出続けています。還暦を過ぎた今でも、私はプレステ5でRPGを楽しんでいます。
就職して結婚した頃には、ノーパン喫茶やファッションヘルスなどの新しい大人の楽しみもありました。
結婚後は夜の夫婦生活も頻繁で、アダルト関連はテレビで観る程度に留まっていました。また、新宿本社に行った際には、フィリピンパブやオッパイパブで一晩に数万円使うこともありましたが、日本でもHIVに関する報道が増え、そのような外での大人の遊びは次第に減っていきます。
40歳頃になると、健全なRPGゲームと夫婦の夜の営みが中心となりました。
しかし、AVに再び嵌り始めたのは、2000年にプレステ2が発売され、44歳で福島への2年間の単身赴任がきっかけでした。
当時、アダルト動画はVHSからDVDへと移行しつつありましたが、DVDでの録画はできなかったため、DVDプレイヤーは持っていませんでした。
ただ、相変わらずゲームをしていたので、プレステ2は必需品でした。実家が玩具店だったため、発売と同時に手に入れることができています。
福島へ単身赴任した際、テレビは現地で購入しましたが、プレステ2は持参しました。
福島工場から車で20分以内の場所に「大黒屋書店」があり、そこでアダルトDVDの中古品を購入できました。久しぶりにアダルトAVを購入したのは、ロサンゼルスへの海外出張で購入した無修正アダルトVHS以来のことでした。
初めてDVDを手にした時、その画質の美しさや、観たいシーンを何度でも簡単に再生できる手軽さに感動したことを覚えています。福島での単身赴任中は、大黒屋書店の毎月の売り出し日になると、数本のアダルトDVDを購入するのが習慣になっていました。2年弱の赴任期間中に、20〜30本ほどのアダルトDVDが溜まったと思います。

すべて、福島で仕事やプライベートでお世話になったNY課長に、新品のPS2と一緒に贈呈しました。NY課長には、新規HPLCカラムの移管プロジェクトで約1か月間、計画通りの発売を実現するために尽力してもらった感謝の気持ちを込めての贈り物でした。ちなみにPS2は課長のお子さんへのプレゼントで、アダルトDVDは「夜こっそり観る」と言って笑って受け取ってもらいました。
2004年、単身赴任が終わり武蔵に戻ってからも、AVの購入は続きました。近くの本田書店で、売り出し日に中古のアダルトDVDを購入していたことを思い出します。

2000年には、長女の誕生日に購入したタワー型のパソコン(Windows ME)がありました。最初は電話回線を使ったダイヤルアップ接続で、通信料がかかるため、その都度ダウンロードしてPC上で観るという形でした。夜中だけは定額で使えるプランがあり、インターネットは夜中に利用することが多かったです。

その後、ADSLに切り替わり、月数千円で定額の接続が可能になり、インターネットは使い放題に。最初はNTTの回線を使っていましたが、接続に問題が起きた際のNTTの対応があまりに悪く、腹を立ててKDDIに変更しました。NTTはすでに民営化して数年経っていたものの、お役所仕事のような対応に苛立ち、以降、KDDIを利用することにしました。それ以来、家の携帯電話は20年以上、ずっとAUを使い続けています。

KDDI-AUでもいろいろな問題はありましたが、対応は悪くなく、今でも満足しています。しかし、不便なのは、こちらから電話などで直接連絡を取るのが難しいことです。電話会社からの勧誘は頻繁にあるのに、こちらからの問い合わせにはなかなか繋がらないのが残念です。チャットやメールでの問い合わせも、質問の仕方が悪いのか、あまり役に立ったことがありません。直接連絡さえ取れれば、対応は迅速で、あっという間に解決することが多いので、改善してほしいと思っています。

2008年には、Windows Vistaのノートパソコンに買い替え、YouTubeやニコニコ動画などの配信も楽しめるようになりました。電話回線を使った時間制限のあるダイヤルアップから、ADSL回線へと移行し、定額でインターネットを楽しめるようになったことは、当時としては大きな進化でした。
その頃、デジタル放送も始まり、テレビを42型のプラズマテレビに買い替え、BS有料放送のWOWOWに加入しました。WOWOWには初期から入っていますが、長期契約特典がまったくないのは少し残念です。しかし、今ではチャンネルが3つに増え、テニスやボクシングなどのスポーツ放送、特に充実した海外ドラマが楽しめるため、気に入って使い続けています。
初期のWOWOWでは、18禁の成人映画も放映されており、その頃、吉沢明歩がお気に入りになりました。また、民放のドラマ『嬢王』に出演していた蒼井そらにも嵌りました。アダルト女優ではないですが、実写版『キューティーハニー』に出演していた原幹恵も気に入っていました。
ただ、特定の女優が好きになったわけではなく、作品自体が面白かったため、その女優が出演するAVをわざわざレンタルすることはありませんでした。

当時は、ゲームや海外ドラマ、YouTubeなど観るものが多く、「まだ24時間働けますか?」という風潮が残っていた時代でした。サービス残業が当たり前で、夜10時頃に帰宅することも多く、AVを見る余裕はほとんどありませんでした。体は疲れていたものの、精神的には活力があり、仕事面では一番充実していた時期だったと思います。
「24時間働けますか?」という時代にサラリーマンとなり、サービス残業やブラック企業が横行する中で、労働改革が進み、時間制限が設けられるという変化も体験してきました。今では、ゆとりある働き方が良いとされる一方で、年金支給も遅れ、アラカンになっても働かないと暮らしていけない時代になりました。

私は2015年に60歳で定年を迎えるまで、忙しくも充実した日々を過ごしていましたが、契約再雇用となり、仕事の負担が軽減され、時間的にも余裕が生まれました。
その頃からアダルトサイトを利用するようになり、そこで紗倉まなさんを知るようになったのです。
そのあたりの話は、気が向いた時にまたNOTEに書き綴っていきたいと思います。

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