思い出33 2年間の福島への単身赴任
実家の玩具店の借金が膨らみ、1996年には私が会社からお金を借りて、1120万円を肩代わりしました。しかし、最終的には実家が借金の担保として二束三文で没収され、家族での夏季帰省も1996年が最後となりました。
子供たちはそれぞれ忙しくなりましたが、2~3泊程度の家族旅行は、長女が働き始める2003年まで続きました。
しかし、2004年には次女が大学に進学し、2005年には長女が嫁いだため、家族全員が集まる定期的な家族行事は2003年が最後となりました。
その後、2016年に孫も含めた家族全員が集まり、私の還暦祝いをしてくれました。このような集まりは、おそらくこれが最後になるでしょう。
会社についてですが、1986年に福島市郊外に現在の武蔵工場の10倍の広さの土地を購入し、新しい生産拠点が作られました。
4回にわたる建屋の追加によって、1996年には標準製品の生産が完全に武蔵から福島工場に移転されます。
武蔵工場はシステム部、カスタマーサポートセンター、開発部、総務の4部署になりました。
システム部は、お客様と打ち合わせをしながら、それぞれのお客様に対応した特注装置を製造する部署です。
カスタマーサポートセンターは、自社製品に関する問い合わせやクレームを受け付け、自社装置を販売するための依頼分析を行う部署です。
私が所属しているのは開発部で、その中でも消耗品を担当する部署に配属されています。
福島への製造拠点移転に伴い、消耗品の製造はさらに拡大しました。
会社のさらなる発展のため、新製品の迅速な市場投入を目指し、開発から製造への移管をスムーズに行うことが重要視されます。
その一環として、福島にも消耗品の開発部門を設置することになり、福島工場に開発分室を立ち上げることとなります。
そのため、私は2000年3月から2002年9月まで福島への単身赴任を経験しました。
福島工場内の寮に住む事になります。
その寮には、6畳の個室が5部屋、10畳二間の共有大部屋、共同の風呂・台所・トイレがある簡素なものでした。
食事の提供はありませんが、冷暖房は完備されていたため、居心地はそれほど悪くありませんでした。寮費として月1万円が光熱費として差し引かれていました。
通常、単身赴任者は会社負担でアパートを借りることができます。
私の場合は、月に2回ほど武蔵工場や本社への出張があり、宿泊は必要最低限で十分だったため、この寮を利用しました。
単身赴任者には月1回の往復帰宅費用と月4万円程度の単身赴任手当が支給されていましたが、出張が多かったため、帰宅費用はそのまま飲み代に使っていました。
現在では単身赴任手当は廃止され、長期出張の日当として支給されるようになり、その額も数倍に増えています。
寮の1階には昼食用の社員食堂があり、昼食後に夕食を作り置きしてくれるサービスもありました。
当時の寮には営業が2名、工場が1名、そして私という構成でしたが、翌年には開発部門から1名が加わり、寮は満室になります。
工場勤務者以外はみんな単身赴任者であり、夜には大広間でよく宴会を開いていました。
現在では、食堂も寮もすでになくなっています。
コンビニでの購入や弁当を持参する人が増え、さらに宅配弁当の種類も増えたことで、食堂の利用者が減り、赤字が膨らんだため閉鎖されました。
現在、その場所は倉庫として使用されています。
2000年末に福島に新しい開発棟が完成し、すぐに操業を開始しました。
私と一緒に武蔵から3名が異動しましたが、私だけは2002年9月に武蔵へ戻ることになります。
しかし、後任のNY課長とウマが合わなかったようで、そのうち2名が退職してしまいました。優秀な人材だっただけに、とても残念に思います。
NY課長は私の2歳下で、製造現場の担当長として私とは良好な関係を築いていました。
しかし、彼は職人気質で、命令口調や上から目線の態度が目立ち、武蔵で自由に開発を行ってきた2人にとっては耐え難かったようです。
単身赴任中は、NY課長と中途採用で入社したKM課長と私の3人で、福島市内によく飲みに出かけました。
当時から、福島では代行サービスが盛んで、行きはNYさんの車で出かけ、帰りは代行で戻ることが多かったです。おそらく規則的には問題があったかもしれませんが、KMさんを送り、その後に私を送り、最後にNYさんが帰るという流れでした。
NYさんは地元の人間で、消防団や子供会など地域行事にも広く奉仕しており、融通の利く代行業者を知っていたため、こうしたことが可能だったのだと思います。
代行サービスは地区ごとに料金が決まっており、このように複数箇所を回ると、タクシーよりもかなり安価でした。
武蔵での勤務時代と同様、毎晩のようにスナックに飲みに行きました。
借金返済があったものの、私も課長に昇進しており、借金を借り始めて4年目を迎えており、利息分の返済額も減っていたため、金銭的には問題なくなっていました。
また、関東に比べて飲食費も安価でした。
スナックの女性たちとボーリングや日帰り温泉にも出かけ、すべてNYさんが手配してくれました。
野地温泉の露天風呂での雪見酒や、土湯温泉でのスナックのママとの混浴露天風呂など、日帰り温泉の思い出は今でも鮮明に覚えています。NYさんのおかげで、福島での単身赴任生活を謳歌しました。
毎年4月には福島飯坂温泉で経営計画発表会が行われ、全国の幹部が集まっていました。夜には慰労会という名目で、コンパニオンを呼んでの宴会が行われ、一泊するのが恒例でした。
かつて飯坂温泉には、コンパニオンを派遣する置屋が数軒あり、その幹部会にどのコンパニオンを呼ぶかを選別する必要があります。
NYさんは、置屋を回って、呼ぶコンパニオンを、毎年選別しています。自腹になりますが、それなりのサービスを受けるので楽しいと言う事で、誘われたこともありました。
最初の宴会では、お酌と楽しい会話が中心で、6名に1人くらいの割合でコンパニオンが付きました。
宴会後、2次会になると、風呂に行ったりする人や翌日のゴルフに参加する人も居て、参加者が減るので、3名に1人くらいの割合になり、さらにHなサービスを受ける事ができるようになります。
慰労会では、6時30分から10時30分までの4時間、コンパニオンを利用できるようにしています。
また、コンパニオンも含めて、夜食として一人1杯の飯坂ラーメン券が渡されます。ラーメン屋は10時30分まで営業しているため、2次会を抜けて各自コンパニオンと一緒に食べに行きます。
その後は、自腹で各自がコンパニオンと相談して延長します。
部屋にコンパニオンを呼んで野球拳をしたり、彼女たちからの濃厚サービスを楽しんだりすることもあります。ただ、人の出入りが多く、割り勘にする者を決定するのにいつももめていました。また、コンパニオンに連れられて、ホテルの外にある置屋まで行って、飲み直すこともありました。
毎年、車で30分ぐらいかかる福島駅前まで、飲みに行くメンバーもいました。
振り返ると、かなり無茶をしていましたが、とても楽しい思い出です。
翌日には有志によるゴルフ会も開かれていました。
しかし、2011年の東日本大震災の影響で飯坂温泉での宿泊ができなくなり、経営計画発表会は、新宿の本社で行われるようになります。慰労会も中止になります。
2016年に、復活しますが、すぐにコロナ禍になり、テレビ会議が中心となったため、こうした集まりもなくなりました。
今年の4月に久しぶりに復活したようですが、女性幹部が増えたことや、企業のコンプライアンスが厳しくなったことから、コンパニオンを呼ぶことはなくなり、男性幹部たちは残念がっていました。
このような事をきっかけに、夏の家族旅行も3年連続で福島を含む東北地方へ出かけるようになります。
雪見酒を楽しんだ野地温泉や幹部会で過ごした飯坂温泉など、福島を中心にした旅行が家族の夏の定番となります。これらの旅行は、長女が就職する2002年まで続きました。
飯坂温泉は、シンプルな泉質の温泉で露天風呂もあり、家族全員が楽しんでいました。特に、老舗旅館の叶ややホテル聚楽に宿泊しました。ホテル聚楽では、種類豊富なお風呂やボーリング場があり、家族全員で楽しんだ記憶があります。現在では、叶やは伊藤園ホテルになり、バイキング形式に変わっていますが、当時は老舗旅館らしく部屋での食事が提供され、ゆっくりと過ごせました。子供たちは、ホテル聚楽のようなバイキング形式の方を好んでいたようです。
一方、山の中にある野地温泉は子供たちには不評でした。硫黄温泉で体に臭いが染み付き、指輪などの装飾品が色あせてしまうことや、携帯電話の電波が届かず友達と連絡が取れないことが、子供たちにとっては最悪だったようです。私たち夫婦は、広々とした景色の良い露天風呂でのんびりと硫黄泉を楽しみましたが、子供たちには受け入れられなかったようです。
福島の温泉に2~3泊連泊し、そこを拠点に様々な観光地を巡りました。
その際、そこを拠点に福島の観光地を巡るのが楽しみでした。五色沼や大内宿、会津鶴ヶ城、アクアマリン福島、あぶくま洞、野口英世記念館など、福島周辺の観光地は3年連続で訪れたため、ほぼ網羅したと言っても過言ではありません。さらに、少し足を伸ばして仙台の松島にも出かけることがありました。
四日市に帰省していた頃は、毎年8月の第1週に行われる四日市祭りに合わせて夏季休暇を取っていましたが、福島に赴任してからは、お盆が終わった最終週に休暇を取るようにしました。これにより渋滞を避け、観光地も比較的空いていたため、快適に過ごすことができました。
特に印象的だったのは、野口英世記念館です。
当時、野口英世が次のお札の顔に選ばれることが決まっていたため、記念館では様々な行事が行われており、楽しむことができました。
その野口英世の千円札が、今年ついに北里柴三郎の千円札に変わることになり、時の流れをしみじみと感じます。20年が経過しているにもかかわらず、まるで数年前の出来事のように感じるのは、年を重ねた証拠かもしれません。
大内宿の三澤屋で食べたネギ1本で食べるそばも、当時はまだあまり知られておらず、並ぶことなく囲炉裏のある半個室で家族とゆっくりといただくことができました。
そばも美味しかったのですが、特に煮込みや漬物、そばがきが絶品だったと記憶しています。今ではテレビでも紹介され、すっかり有名になってしまい、あの頃のように広々とした空間でゆっくりと食事を楽しむことは難しくなっています。
この時代はまだインバウンドもなく、SNSも存在しない、静かでゆったりとした時間を過ごせる時代でした。
そんな中での福島での単身赴任も2002年10月に終わり、私は武蔵に戻りました。
そして、夏の家族旅行も、2003年の福島旅行が最後となりました。
一方、プーは会社に入社した時の健康診断で糖尿病と診断されていましたが、子育てなどもあり、対処せずに過ごしていました。
しかし、視力が徐々に低下し、2003年に近所の眼科医から白内障と思われると、東京医科大学を紹介されました。
すぐに、新宿にある東京医科大学病院での入院と白内障の手術が決まりました。
新宿駅から本社に行く途中に病院があったため、会社の人達たちが見舞いに訪れてくれました。
私も本社からの帰りに病院に寄ったことがありましたが、その際、偶然にも高校帰りの長女が見舞いに来ていて、病室で顔を合わせたことがありました。
長女はジャージの上にスカートを重ねた、いわゆる「はにわスタイル」で登場しました。狭山近辺での通学時なら目立ちませんが、夕方7時頃の活気あふれる新宿でそのスタイルは目立ちすぎると思い、急いでジャージをたくし上げて見えないようにしました。
当然のことながら、総合病院での診断で糖尿病が原因であることはわかっていましたが、白内障の手術が無事に終わり、そのまま退院となりました。
しかし、その後も視力の低下は止まらず、最終的には同じ系列の八王子医療センターを紹介されました。
糖尿病からくる緑内障と診断され、手術をしても糖尿病の進行を抑えなければ失明する可能性が高いということがわかりました。
八王子医療センターでは、まず糖尿病の対処が最優先とされました。
糖尿病の治療には家族の協力が不可欠であり、私も呼ばれて血糖値検査やインスリン注射の方法を学びました。
その際、なぜここまで悪化するまで放置していたのかといった厳しい指摘も受け、詳細な説明を受けました。振り返ると、最初から東京医科大学ではなく、八王子医療センターで診てもらうべきだったと思いますが、当時はセカンドオピニオンを求めることのハードルが高かったと感じます。
その後、プーはインスリン注射量の調整や緑内障の手術のため、約2か月間入院することになります。
現在では圏央道が開通し、高速道路を使えば30分ほどで到着しますが、当時はまだ開通しておらず、車で片道1時間半ほどかかっていました。
毎週土曜日には、次女と長男を連れて、車で見舞いに行っていました。
朝早く家を出発し、途中でファミレスなどで昼食をとり、午後3時頃まで病院に滞在して、帰りに買い物をしてから5時頃に帰宅するという、ちょっとしたプチ旅行のような週末でした。
長女は歯医者で働いており、土日も仕事があったため、いっしょに見舞いに行く事は、ありませんでした。しかし、休みの日には一人で電車とバスを使ってお見舞いに行くこともあったようです。
プーの入院は約2ヶ月に及び、その間、朝と夕方の食事は私が担当することになります。料理は嫌いではなかったので、楽しんで取り組んでいました。
プーが普段作る朝食は、ご飯に味噌汁、ほうれん草の炒め物、卵焼き、ウインナー、おかず、サラダ、漬物という、基本的な和食スタイルです。
味噌汁は愛知のイチビキの赤みそを使い、昔は煮干しで出汁をとっていましたが、今ではほんだしを使っています。
初めて味わう人には少ししょっぱく感じるかもしれませんが、具材の甘味が引き立ち、私たち家族はこの濃い赤みそに慣れているため、通常のミックス味噌では物足りなく感じてしまいます。
私が作る朝食は、手軽なパン食が基本でした。
マーガリンパン、コッペパン、メロンパン、フランスパン、ケロッグなどが中心です。
食パンはトーストしてバターやジャムを塗るのが面倒なので、前日に卵入り牛乳に漬け込んでおいて、朝にフライパンで焼くフレンチトーストにしていました。
また、前日の夜にウインナーと野菜を入れたコンソメスープを作っておき、翌朝に温め直してウインナーをおかずにしました。
ゆで卵を前日に作り置きしたり、ベーコンやハムと一緒に炒めたスクランブルエッグなど、手間のかからないおかずも用意したりしました。
夜には、夕食後の片付けをしながら、フライパンでウインナーや野菜を十分に胡椒をかけて炒め、鍋に移してお湯を加え、フライパンを洗い流しながらコンソメスープを仕上げました。
翌朝、温め直していただくという手順で、家族の食事を支えていました。
このようなシンプルなスープでしたが、子供たちには好評で、美味しいと言って喜んでくれました。
カレーやシチューなどの煮込み料理は、前日の夜に作り置きしていました。
私は無洗米を使っており、朝は炊飯器に入れてタイマーをセットするだけで済ませていました。
夜には会社帰りに値引きされたお惣菜を買ってくることも多く、どうしても揚げ物が中心になりがちでしたが、20歳前の子供たちには喜ばれていました。
その他に多く作っていたのは、簡単にできて野菜も摂れる肉野菜炒めです。
中華スープの素を入れて、塩コショウで味付けして炒めるだけの手軽さでした。
プーが作る料理は野菜の煮込みや焼き魚がよく出されましたが、私は面倒なのでそのような料理はあまり作らず、魚はムニエルか煮込みにしていました。
私の料理は子供たちには好評で、楽しんで食べてくれていたようです。
プーは2003年末に無事に退院しましたが、緑内障の影響で視力が低下し、ピントが合う範囲が狭くなってしまったため、免許を返納しました。
しばらくの間はインスリン注射をして糖尿病の管理を続けていましたが、私の母が入院し、父の世話をするために四日市に行くことになり、その間にまた糖尿病の対処が疎かになってしまいました。
2015年の年末には、プーが嘔吐を繰り返すようになり、どうしようもなく土曜日に狭山石心会病院を受診しました。
若い先生が診察し、嘔吐止めの飲み薬を処方されただけでしたが、水を飲んでも嘔吐してしまい、薬も飲むことができず、翌日に再び病院に行くことになります。
プーが再び病院に行った際、年配の先生が担当し、すぐに点滴を施し、糖尿病の影響もあるため、即座に入院が必要だと診断されました。
しかし、病室が空いていなかったため、狭山厚生病院を紹介され、病院の救急車で、その日の内に転院され入院することになりました。
同じ病院でも、担当する先生によって対応がこれほど異なることに驚きました。
プーは食事ができるようになるまで3日ほど点滴を続け、その後、徐々に食事が取れるようになってから糖尿病の治療を始めました。
最終的には約3週間の入院となりました。
これまで使用していたインスリン注射に代わり、継続しやすい飲み薬が処方され、現在もその薬を服用しています。
1カ月に及ぶ入院は高額な医療費がかかりましたが、保険のおかげで2回の入院に伴う金銭的な負担はほとんどありませんでした。
糖尿病は完治しないため、今後も薬を飲み続けながら付き合っていくしかないとのことです。
福島への単身赴任や妻の入院など、様々な経験を重ねてきましたが、今では夫婦と長男の3人暮らしをしています。
蓄えが少なく、老後の不安はありますが、これまでのように、どうにかなるだろうと楽観的に考えています。理想は「ピンピンコロリ」ですが、なるべく子供たちに迷惑をかけたくないと思っています。