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ケアとはサポートや支援を超えた先に存在する#読書記録(前編)
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9月に娘と宿泊した岐阜県石徹白のすばらしいお宿で見つけた本。
「ケアとは何か」
#村上靖彦
#ケアとは何か
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そのときは表紙を見ただけだったけど、惹きつけられて写真におさめた。それから2か月後やはり触れたくなり購入して読んでみたところ、積読ばかりの私が、久しぶりに一気に読み終えた。
わたしの中では特別なメンターのような本になった。
溢れた感情や感覚は、文字で書ききれない。でも今の感覚を未来の自分のために、そして同じ感覚を必要とするだれかのために残しておこうと思った。
読書記録を書くのは初めて。
今回は、前編(本の前編という意味でではなく、溢れた感情を綴る前編)として残したい感情は、
締め付けられるような苦しさから
大きな優しい気持ちと喜びが生まれた私の感情プロセスについて。
【ケアとは、サポートや支援を超えた先に存在する】こと、わたしがやりたいことに繋がったことを綴っていきたい。
言葉を発することが自らの人生をつくる営み
引用
自分の言葉を発することで、自らの人生をつくっていく営みであるという意味
これが一番、共感しながら、背筋を正したくなるきゅぅーとした苦しい緊張感を感じた言葉。自分が携わっているカウンセラーや人材・組織開発の仕事、親としてのかかわりである子育て、夫婦関係、両親への想い、、、生きること、暮らすこと、過ごすこと、すべてにつながることだから。
だれもが「生きるために自分の言葉を発する」
ここで言う「自分の言葉」には、言語だけでなく、目、身振り手振りなども含まれるとしたら、私は最初に娘が生まれた赤ちゃんの時とこの文章を重ね合わせた。
生きるために自分ができる精一杯の言葉で発してくれていた情景を思い返した。
弱さの価値
強くある必要はない。人は誰でも弱くなるのであり、SOSを出せたり依存先を増やせたりすることが生存の鍵となる。
このメッセージから、
強く生きるとは、ひとりで生き抜くみたいな強さではなく、助けを求め、相談をしながら、必要なだれかと生き抜くこと。自分の弱さに素直に誠実に向き合い受け入れていくことだと感じた。
依存先を増やすことは、生きる強さにつながる。
「強さ」のとらえ方が大きく変化した。
弱さの「情報公開」を行い、仲間をつくっていくことが、生き抜く力となる
弱さとは、強さが弱体化したものではない。弱さとは、強さに向かうための一つのプロセスでもない。弱さには弱さとして意味があり、価値がある
弱さの情報公開。
弱さは強さの反対でもない。
強くなるためのプロセスでもない。
弱さ自体に意味と価値があるということ。
わたしが自他ともに弱さ、弱いと感じていることが神々しく感じられる感覚になり、弱さなんだけど必要なことと思えてきた。そんなきっかけをいただいた文章。
死について語ることは生の肯定
対話を通じて現実に応答する手段を手にする。痛みや呼吸困難のなかで言葉を紡ぎ、近づいてきた死と自身の存在を考え抜いた結果、思考と言語化の過程が人生を肯定する言葉に集約される。 「痛むことで私は自分の身体を思い出し、自分を強く感じます」というとき、存在に対する逆説が込められている。これは前章で検討したような、快適さの確保による存在の肯定とは正反対の、痛みによる存在の確認といえるものである。
「痛むことで私は自分の身体を思い出し、自分を強く感じます」快適さの確保による存在の肯定とは正反対の、痛みによる存在の確認。
いいこと、うまくいっていること、普通の毎日があることではなく、苦痛や苦しさに自分自身の存在を感じられる。その中で、誰かと対話し自分を言語化できることは大きく生きていると実感できる営みということ。
辛さや怖さ、苦しさを語ることが生きる力になる。
その人が目の前にいたら、わたしは、まずはじっくり耳を傾けたい。生きるための言葉に。
ただ、目の前に居続けること。目を合わせることの本質
苦しみから自分の存在を感じる、と近いメッセージを受け取ったのがこの文章。
目の前にいる相手が語る困難を受けとめられたかどうかはわからない。まして、どのように応答するのが適切なのかなんて。しかし、そのような場合でも、目の前に居続けることは必要になる。
これまでは言葉や対話を視点においていたが、
「ただ居ること」の意味と価値について。意識がなくても瞳に入って目を合わること、どんなに悲観していても隣にただ居続けること。自分の存在があるだけでだれかが生きるきっかけになり、生きる力につながるかもしれない。
深い可能性が込められていると感じた。
ただ居ることに、何もできない自分と解釈して無意味さを感じたり、親しい人ほど、しっかり目を合わさなかったり、わたしは思い当たる体験がたくさんある。
自分のためにだれかのために目の前の人の存在、自分の存在の感じ方はもっと奥のほうにあるんだと思う。
仮面を手放せば自らが傷つく
これは、ケアラー(ケアをする人)の視点での文章。
自ら防御壁を捨て去って当事者に向き合わざるをえない場面では、より傷つきやすくなる。今現在の実践の難しさだけでなく、自身が幼少期に負っていた過去の傷がよみがえることもある。仮面を捨てなければ支援できない、仮面を捨ててしまえば自らが傷ついてしまう。そうしたアンビバレントな状況に、ケアラーは追い込まれやすい。 支援職同士が安心して語り合うことができる場の存在は、まだまだ一般的なものではないかもしれない。しかし、その数はこれからもっと増えていくだろう。
仮面が必要、でも仮面があることでこれまで綴ってきたような本質的なケアにたどり着けないこともある。でもでも、仮面を手放せば、自分がどうなるかわからない。
この矛盾している状況を丸ごと受け入れ包み込める場所が必要ということ。
役割や専門性が仮面だとしたら、生死や医療の場だけでなく、仕事や家庭などどんな状況でも当てはまる矛盾だと思う。子育てや夫婦関係について相談するママ友との時間も、仕事の愚痴を吐き出しあえる同僚との飲み会もすべて必要なこと。
仮面のつけ方、外し方、仮面との付き合い方を知っていくために。
一番は自分をケアしながら、だれかをケアするために。
わたしはやはり、変化の触媒を極めたい
つながる人、つながりを生み出す人、変化と連続性の触媒となる人、状況への立ち会いの証人となる人、当事者とフラットな位置に立つ人という役割
ケアラーとは?ということが言語化された文章。
おこがましく聞こえてしまうかもしれないが、わたしは、まさに自分を言語化された感覚になった。今の活動や仕事の状況に当てはまりすぎていたから。
同時に、自分のあり方なのだと改めて気づかされ、迷わず進んでいこうと背中を押してもらった気持ちになった。
触媒とは、「促す」の意味合いを秘めていて
変化をさせること、変化自体をゴールにするのでなく、変化することもしないことも必要なプロセスを全体からフラットに促進して創っていく。何かに偏ることなく。そのプロセスの中でつながりを生み出し、ときにはただ居ることで証人になる存在。
白黒はっきりさせたいところをグレーのプロセスのなかで最高の時間や体験や感覚を生み出す、出会える場を創ること。
それがわたしがやりたいことであり、今回のテーマ「ケア」とも紐づく考え方。
ケアの本質的なとらえ方に対する苦しみから、自分のありたい姿に重なった喜びに至る今回の前編。ピックアップした文章は、わたしが心にのこった文章の1/3くらい、、、、
後編も自分のために、だれかのために綴っていきたいと思う。
#読書記録
#ケア
#ケアラー
#自分のあり方
#弱さ
#強く生きる