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"気分"とは何なのだろうか?〜明確に意識される部分に核心はないのかもしれない〜

「気分とは何なのだろう」

私たちは日常生活の中で「気分がいい」とか「気分が悪い」と言うけれど、自分で感じ取ることのできる、この気分というものは、なぜ「気分」と言い表されるのだろうか。

「気を分つ」と書いて「気分」と読むわけなので、「気」と「分」のそれぞれについて考えてみる。

「気」の語源を調べてみると、古代中国の哲学や自然観に由来する概念で、特に道教や儒教などの思想体系で重要視されているもの。万物を構成し、生命や力の根源となるエネルギー」と考えられていたものが気である、と。

次に「分」については、「全体の中の一部」を表す他、物事の状態や程度、性質を表すこともある。

とすると、「気分」とは、「統合的な」気の一部が分たれ、表面化した状態と言えるのかもしれません。

普段は様々な色(状態・特性)がグラデーションのように混ざり合い、渾然一体となっている「気」が、何かのきっかけや状況によって特定の色が濃くなり、その部分が明確に認識されるようになる。

気分がいいと感じるのでも、悪いと感じるのでもない。

明確に認識される状態が「部分」であるならば、むしろ、明確に意識されていない時こそ「気」の核心なのかもしれません。

平安文学では、水の泡は「はかなさ」の象徴であった。『蜻蛉日記』には、「水の泡のように、はかなくこの世から姿を消せるなら消してしまいたい……」とある。また、『源氏物語』にも、「涙川に浮かぶ水の泡のように、泣いてばかりいる私はすぐにも死んでしまいそうです」とある。

鈴木信宏『水空間の演出』

「水はつねに流れ、水はつねに落ち、つねに水平状態の死に終る。」水のこの性質は、変化の性質であるとともに、不変の性質でもある。すなわち、水は常に変化するという不変の法則を持つ物質なのである。水をこう理解するとき、水は「時を結ぶもの」となる。『宇津保物語』は、「今宵より流るる水をのが世に、幾度澄むと見まく鶴の子」と歌う。また『源氏物語』でも、紫式部は、昔と変わることなく、絶えず流れ続ける遺水に、時を越え、昔と今とを結びつける水をイメージしている。

鈴木信宏『水空間の演出』

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