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あえて「バランスを崩してみる」ということ〜ゆらぎを味方につけて、思いがけない状態へと至る〜
久しぶりの雲一つない青空が広がる土曜日の朝。
いつものようにヨガスタジオへ足を運び、ゆっくりとカラダを動かす。
最初は呼吸が入りにくかったけれど、そんな時は無理に「たくさん息を吸おう」としないことが肝心。
細く長くゆっくり「動かし続けている」と、肺の伸縮性が高まって、呼吸をするたびに、少しずつ少しずつ「呼吸が入ってきている」実感が湧いてきます。
また、内側の筋肉(インナーマッスル)に意識を向けて支えを作ろうとしても、これまたインナーに適度に力が入っている感じがしない…。
さて、どうしたものか。
そう思った時、あれこれ考えることを手放し、「倒れてもいい」と割り切ってバランスを崩してみる。
すると、バランスを崩したカラダが瞬間的にバランスを取り戻そうとして、全身が協調して、「いつも以上に内側の筋肉が入った!」という実感を伴いながらバランスが取れた姿勢に至る。
こうした予定不調和、不均衡が「新しい状態」へと至る入り口なのかもしれない。
そして、「いつもと同じように」という考えることは、じつは知らず知らずのうちに後退を促しているのかもしれない。
ゆらぎを味方につける。思い切ってバランスを崩してみる。
カラダって本当に面白い。
しかし、存在するものの不伏蔵性は、われわれが前提するのではなく、むしろ存在するものの不伏蔵性(存在)のほうがわれわれを、表象にさいしていつも不伏蔵性の内に据えられ、そして不伏蔵性の後に付け加えられるにとどまるような本質へと置き換えるのである。認識がそれ自体を合わせるところの事柄だけがすでに何らかの仕方で不伏蔵的にあるというのではない。この「何かにそれ自体を合わせる」ということが運動している領域全体、そして同様に、命題と事柄との適合がそれに対して明らかとなるもの〔われわれ〕もまた、全体としてすでに不伏蔵的なものの内に生じていなければならない。
もし存在するものの不伏蔵性がすでに、あの空け開かれたところ、すなわちそのなかにおいて一切の存在するものがわれわれに対して立ち現れ、またそこから退去するところ、そこにわれわれをさらしていなければ、われわれの一切の表象が正当なものであっても、われわれは無に等しいものであろうし、われわれが自らを合わせている何か或るものがすでに明らかである、ということも前提できないであろう。しかし、このようなことはどのようにして起こるのか。真理はこの不伏蔵性としてどのように生起するのか。だが、それに先立って、この不伏蔵性そのものとは何であるかがいっそう明白に言われなければならない。