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はじめて約束を守ったのはいつだろう?

ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「<贈与交換>を取り入れた社会」と「ニーチェの『道徳の系譜』」を読みました。

テーマは「負債と記憶」について。一部を引用してみます。

ということで『道徳の系譜』におけるニーチェの考えを説明すると - ニーチェは古代の社会で「道徳」ができあがった、そのおおもとに<負債>を置いた。すなわち、<負債>という概念があることによって、人間は「道徳的な存在」になったというのである。
というのも、「道徳的な存在」になるということは、要するに「約束を守る存在」になるということであるが、そのためにはまず「記憶を持つ存在」にならなければならない。そこで<負債>が果たした役割を考えると、<負債>はまず人間に「借りたものは返さなければならない」という意識を植えつけ、「借りたことを覚えている存在 - 「記憶を持つ存在」にした。
それから、「借りたものをきちんと返させる」ことによって、人間を「約束を守る存在」にしたのである。「責任を持った、信頼される存在」にしたと言ってもよい。「約束を守ること」、「責任を持つこと」 - これがすべての道徳の基礎になることは言うまでもない。<負債>は、その観念を育て、鍛えたのである。

「それから、「借りたものをきちんと返させる」ことによって、人間を「約束を守る存在」にしたのである。」

この言葉がとても印象的でした。

「借りたものは返す」という行為が「約束を守る」ことの一例であるだけでなく「起源」でもある。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(哲学者)はそのように考えました。

では、自分自身が生まれて初めて「約束を守った」のはいつだろう...と記憶を辿っても思い出せないのですが、おそらく「親との約束」だったのだろうと思います。

「そもそも約束とは何か?」という問いがあるわけですが、人は生まれた時から自分ひとりでは生きていくことはできません。親をはじめとして、周囲の支えが必要です。その意味では、親に「借り」を作り続けながら成長するわけです。

意思疎通ができるようになり、家庭の中で家族と接する中で「約束を守る」ことを体得するように思います。「約束を守る」ことで「褒められる」とか「怒られなくてすむ」といったフィードバックを通して、自分が何かを判断する上での基準、あるいは道徳や倫理などを身につけていく。

この、フィードバックが「記憶」として蓄積することで「望ましいこと」は繰り返され「望ましくないこと」は繰り返さないようにする。

では、何がきっかけで他者に「借り」ができた(あるいは貸しを作った)と感じるようになるのでしょうか。

自分事として振り返ると「物の貸し借り」なのかもしれないと思いました。

家族、家族以外の誰かでも「足りない部分を補ってくれた」という出来事は分かりやすく記憶に残るものです。

「忘れた」となれば「もう二度と貸さない」となり、閉じたコミュニティの中で長い信頼関係を築くことができず、生きづらくなってしまう。

「物の貸し借り」のように認知しやすく、記憶に残りやすい「借り」があるならば、そうでない「借り」つまり認知が難しく記憶に残りにくい「借り」もあるのかもしれません。

後者(認知が難しく記憶に残りにくい)の「借り」というのは、もし自分が気付かなければ「受け取りっぱなし」になってしまいます。

「借り」というよりも「恩」と捉えたほうが良いかもしれませんが、できるだけ気付き、その受け取った「恩」をまた誰かに渡していきたいものです。

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