「借りの質量」としての貨幣
ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「貨幣経済をもとにした資本主義 - <等価交換>–<負債>のシステム」を読みました。
テーマは「借りと資本主義」について。一部を引用してみます。
いくら優れたものを持っていても、それをお金に換えることができなければ、<負債>は返済できない。そうなったら、罰を受け入れるか、相手の奴隷になるかだ。資本主義の登場を待って、人々は<負債>を返し、刑罰や隷属状態から逃れることができるようになったのである。こういった伝統的な社会に対して、資本主義社会は貨幣経済をもとにして、個人を<借り>や<負債>から解放することを目指した。
それに関係して、もうひとつの功績は、貨幣を媒介にして、<借り>をそのつど清算できるものにしたことである。(中略)ところが、資本主義社会では、貨幣を共通の価値の基準として、すべてのものに価格をつけることによって、<借り>を一瞬にして清算できるようになった。提供されたサービスに対し、お金を払えば、サービスを受けた<借り>はその場で消えてしまうのである。
第一に<借り>を<負債>に変えるのに成功したこと。第二に<負債>を返済する手段を人々に提供したこと。資本主義社会のこのふたつの功績によって、人々は原始社会、そして封建社会から続く<借り>や<負債>の重荷から逃れることができるようになった。
「それに関係して、もうひとつの功績は、貨幣を媒介にして、<借り>をそのつど清算できるものにしたことである。」
この言葉がとても印象的でした。
「そもそも、資本主義とは何だろう?」という問いは一旦脇に置くとして、資本主義社会の中では「商品」と「貨幣」が重要な役割を担います。
誰かから商品(あるいはサービス)を受け取った状態というのは、その誰かに対して<借り>ができた状態と捉えることができます。その<借り>を、何か具体的な贈り物で返すのではなく、その<借り>に見合うだけの貨幣を渡すことで<借り>を帳消しにすることができる。
その都度<借り>を清算することで、負い目を感じることなく生活することができる。これはある意味で「人間関係の中に縛られない」とも言えるかもしれません。貨幣を通じて借りを清算しやすくすることで、囚われずに生活することができるというのは、気が楽でもあるような気がします。
あるいは市場価格は需要と供給で決まると言われますが、この文脈で言えば「借りの質量」とも捉えることができるでしょうか。
「本当にその額が<借り>に見合っている」か、その妥当性・正確性を示すのはとても難しいように思いますが、いずれにしても互いに「それでよし」とすることを持って、借りが清算される。
「それでよし」が対価を媒介として成立するのは、妥協の産物というのか、あるいは叡智と言うべきか。
もちろん「お金には変えられない」物事もあると思いますが、大方の物事に「折り合いをつける」術を見出したことで、貸しと借りを伴う贈与や交換が気楽に・円滑に行えるようになった。
「貨幣による商品取引」というと、どこか無味乾燥な印象を抱いていましたが、こうして考えてみると、商品の周りにある一人ひとりの具体的な人や、人間関係の存在に意識が向いてきて、不思議と新鮮に感じられてきます。