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視覚に頼りすぎない、ということ。〜集中と緊張、分散と弛緩。〜

ヨガに取り組み始めてから、かれこれ10年以上が経ちます。

実感している大きな変化の一つは「視覚に頼りすぎない」ことです。

スタジオには全身が映る鏡があり、同じ時間と空間を共有する方々が自分の姿が半身でも映るように、重なり合わないように配慮しながら立ち位置を決めていきます。

全身が映る場所でポーズを取ることもあれば、全身は映らない場所でポーズを取ることもあります。

鏡に映る姿に集中すると、つまり視覚に頼りすぎると、全身の隅々に意識を向けることが難しくなります。どこか過剰に緊張してしまうんですね。

そこで、瞼の力を緩めていき、鏡に焦点を合わせすぎないように、ぼんやりと姿を捉える。樹木が大地に根を張り巡らせていくように、身体に意識の根を張り巡らせていくように。

すると、次第に自分の内側を「観る」ような感覚が芽生えてきます。

この内側を「観る」という感覚は表現が難しいのですが、「内側から自分に触れている」ような感覚に近い気もします。

集中と緊張。分散と弛緩。

見ると観えなくなり、観ると見えなくなる、というような二項対立的な構造ではなく、「見ると観る」は両立することができる。

そして、その先には統合的な「察る」がある。

見る、観る、察る。感じる。

世の中には、確かに「身体論」というジャンルがあります。多くの美学者や哲学者がこの「身体論」の系譜につらなる書物を書き連ねてきました。その中には独特の快楽をもたらす本もあります。しかしどうもしっくりこない。何だか分かったような分からないような気になってしまうのです。その理由は単純で、それらの書物は「身体一般」について書かれているからです。「私の身体」や「あなたの身体」ではなく、抽象的な「身体というもの」について論じられる。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

まえがきで触れたように、私たちが得る情報の八割から九割は視覚に由来すると言われます。五感のうちで視覚は特権的な位置を占めていますし、とくに西欧の文化では視覚が非常に重要視されています。パリのシャンゼリゼ通りなどを歩いていると、凱旋門に向かって目線がスーッと吸い込まれるような感覚を味わうことができます。西洋では都市のつくりまでもが目の快楽のためにデザインされているのだな、と感じる瞬間です。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

その、私たちが最も頼っている視覚という感覚を取り除いてみると、身体は、世界のとらえ方はどうなるのか?そう考えて、私は新しい身体論のための最初のリサーチの相手として、「見えない人」に白羽の矢を立てました。つまり、「見えない人」は、私にとって、そして従来の身体論にとって、ちょうど補色のような存在に思えたのです。ずいぶん長くなりましたが、これが、私が「視覚を使わない体に変身してみたい」と思った理由です。

伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』

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