身体の微分可能性、懸垂線、そして調和。
身体を動かすことの最大の効用は、「自分の身体の変化に気付くこと」ではないかと思っています。
時々、ヨガを通して感じたことを綴っていますが、今日もヨガをしていた中で、身体がなめらかに、しなやかに動いた心地良さに着想を得て、タイトルを「身体の微分可能性」としてみました。
微分可能性とは、数学における「関数の滑らかさや変化の速さを示す」概念です。イメージを膨らませるために、ChatGPTに微分可能性について尋ねてみると以下のような答えが返ってきました。
ヨガでは背骨全体を前後に反らせるポーズがありますが、日によって全体がしなやかにストレスなく伸びる時もあれば、しなやかさに欠けていて所々でストレスがかかり窮屈に感じたり時には痛みを感じることがあります。
つまり、背骨全体でストレスを感じる部分がない状態は極めて「なめらか(微分可能)」であり、調和している感覚、落ち着きを覚えます。一方で、所々にストレスや窮屈さを感じる時というのは、物質的には連続しているのだけれど、ストレスを感じる点においては「なめらかではない」ことを意味していて、つまり調和が損なわれているように感じるのです。
「調和しているつながり(連続性)」「調和していないつながり(連続性)」がある。この違いを説明する足場となるのが「微分可能性」という概念ではないか。ふと、そのように思ったのです。
数多の曲線が存在する中で、その一つに「懸垂線」という曲線があります。
この懸垂線という曲線は、以下の説明のように微分方程式という方程式の解として導かれるもので、つまり微分可能性が内在している曲線です。上図における"a"という値は、懸垂線の設定(置かれた状態)によって決まるもので、様々な値を取り得ます。
自分の背骨がしなやかに伸びた体験を足場として、懸垂線の気持ちになってみると、案外「心地いい」と感じているのではないかと思うんですね。
その身にかかる重力が特定の箇所に過度に集中することなく、万遍なく分散して全体がしなやかに調和している。それこそ「しなっている」のです。
多分に「正しさ」や「厳密さ」に欠けている概念の使い方だと思います。
それでも感じたこと、直覚したことが、ある言葉や概念と無意識的に反応、共鳴した瞬間の喜びや嬉しさを書き留めておくことは、私にとって大きな意味がある。おそらく未来の自分が振り返ったときに、現在の私と響き合うのではないか。そんなことを思っています。
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