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かたちの静と動、見立ての縁起性〜見立て=借りる✖️組み合わせる〜

生き物の成り立ちを知るうちに「かたち」の面白さに意識が向いてきます。面白さというよりも、むしろ「神秘さ」とも言えるかもしれません。

書籍『生命誌とは何か』の中で「ある遺伝子が、いつどこではたらいてどんな形をつくっていくのかを追わなければ、生きもののことはわかりません」と綴られていました。

「かたち」という言葉から思い浮かぶのは、「既に出来上がった状態」としての何かが多いように思います。逆に「出来上がっていく過程」が思い浮かぶことは案外少ないのではないでしょうか。

既に出来上がった状態は「静的」で、出来上がっていく過程は「動的」

そう書いていたら、ふと幼少期が懐かしまれました。

ブロックを組み立てること(遊び)に夢中で、「これを作る!」と決めてから手を動かすのではなく、目の前に広がる数多のブロック(要素)の海を眺めては、「これだ!」と直感したブロックに手を伸ばしては思い思いに組み合わせてみる。

そうしていると、つながりあったブロックが自然と何かに見えてきて、愛着が湧いてきます。その「何か」は最初から思い浮かんでいたわけではありません。

つまり、あとから「見立てる」わけですが、今思えば見立ての面白さに夢中になっていたのかもしれませんし、今でも一見違う物事に意外なつながりが見出される時は、じつは無意識のうちに何かに見立ているかもしれません。

見立てることは「借りること」「組み合わせること」の掛け合わせ。

植物が持つ「ヘモグロビン」の構造と動物が持つ「クロロフィル」の構造はとても近しい一方、それぞれ異なる機能を発揮していて、その元は「流用」にあるのではないか、ということ。

今あるもので「何とかやりくりしてみる」と、思いがけない「組み合わせ」が見つかるというか、「ここにハマるんだ!」という驚きが訪れること、あると思います。

それは物だけでなく、人も同じではないでしょうか。

新しい機会に飛び込んでみて、最初は右も左もわからないけれど、始める前には想像もつかなかった面白さに出会えたり、飛び込んだ環境が自分になじんだりする。

人の個性はその人自身だけでなく、環境との組み合わせ、調和していく過程において輝きを放っていくように思います。

「ここにハマるのではないか?」という直感は自分では完全に制御できないというか、降りてくる感覚があって。

そうした縁起性も含めての生命、生物ではないかと思うのです。

多細胞生物すべてに共通の形づくり、脊椎動物と節足動物に共通の形づくりが見えてきたということは、その基本はかなり保守的に続いてきたことを意味します。その中で新しい機能を加えていく際に興味深いのは、元々はある機能をもっていたものが、後から出てきた生物でまったく別のはたらきをもつ例が少なくないことです。植物の光合成に関係するクロロフィルと私たちの体の中のヘモグロビン、バクテリアの中にあってチーズづくりに使われているレシチンという酵素と私たちの眼にあるタンパク質など、いい加減に流用したとしか思えない例がたくさんあります。生きものづくりは鋳掛け屋さんだとつくづ苦思います(もっともこの商売は若い人には通じなくなっているようで、しゃれていうならブリコラージュでしょうか)。

中村桂子『生命誌とは何か』

形づくりの研究は、同じ遺伝子がはたらいているという発見を具体的な形の共通性と違いにつなげなければ意味がありません。それには、形づくりの遺伝子のはたらきと、実際の形、たとえば骨の形の変化との両方を追っていくことが大事です。最近はDNA、DNAといわれ、DNAさえ調べればなんでもわかるように思われがちですが、それは違います。ある遺伝子が、いつどこではたらいてどんな形をつくっていくのかを追わなければ、生きもののことはわかりません。骨の形は解剖学の基本であり、昔からよく調べられてきましたので、それを新しい目で見るととても面白いのです。

中村桂子『生命誌とは何か』

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