Small is Beautiful.
昨日まで書籍『生活工芸の時代』を読み、「生活空間を小さくすることで、生活に本当に必要なものを篩(ふるい)にかける」という学びを得ました。
この「小さい」ということについて考えを深めたく、今日からしばらくの間は、イギリスの経済学者E・F・シューマッハによる書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』を読み進めたいと思います。
シューマッハが本書を執筆したのは1973年のこと。1973年といえば、第一次石油危機(1973 oil crisis)の年であり、大量生産・大量消費こそ正義と考えられていた時代です。
イギリス石炭公社の経済顧問を務めたシューマッハは、石炭や石油の枯渇というエネルギー危機を予測し、「Small is Beautiful」という真逆の価値観によって、大量生産・大量消費に対して警鐘を鳴らしたのでした。
今日は「第一部 現代世界」より「第五章 規模の問題」を読みました。一部を引用してみます。
規模の問題をもう一つ別の観点から眺めて、何が本当に必要なのかを考えてみよう。およそ実社会では、一見矛盾・排斥しあう二つのことが同時に必要なようである。たとえば、自由と秩序がそれである。無数の小規模な自治組織のもっている自由が必要であると同時に、大規模な、ときによっては全世界にまたがる組織などの統一と整合というものの秩序も必要である。
何かの行動を起こすときには、小さな組織が要る。なぜならば、行動というものは個人色のきわめて強いものであって、誰でも限られた数の人としか一度に接触できないからである。ところが、思想ないしは原理、倫理、平和やエコロジーの不可分性といったことがらになると、人類の一体性を認め、この認識の上に立って行動しなければならないのである。
別のいい方をすれば、人はみな兄弟というのは正しいが、現実の人間関係の中では、兄弟同士になれるのはごく少人数に限られており、人類愛よりもこうした少数の人たちに愛情を注ぐことが必要なのである。人類愛をさかんに唱えながら、隣人を敵視する人もおり、また隣人とは絶好の関係を結びながら、仲間以外の人たちに対してはひどい偏見を抱いている人がいることも周知のとおりである。
「人はみな兄弟というのは正しいが、現実の人間関係の中では、兄弟同士になれるのはごく少人数に限られており、人類愛よりもこうした少数の人たちに愛情を注ぐことが必要なのである」
これは「Small is Beautiful」を具体化した言葉の一つであると思いました。
人の認知上限を表す数として、イギリスの人類学者であるロビン・ダンバーが提唱した「ダンバー数」があります。Wikipediaから引用してみます。
ダンバー数については、150という値がよく用いられるが、100から250の間であろうと考えられている。 ダンバー数とは、知り合いであり、かつ、社会的接触を保持している関係の人の数のことである。
「日常生活の中で、どれだけの人と顔を合わせているだろう?」と問うた時に、何人ぐらいの顔が思い浮かびますか。情報技術の発展により「誰でも・いつでも・どこでも」つながりを持つことができるといえども、密度の高いつながりを保っている人の数はそう多くはないのではないでしょうか。
規模が大きくなると「見かけ上のつながりの数は増えるけれど、一人ひとりの顔が見えなくなる」という事象が起きます。人に限らず、たとえば、モノもあふれると目や手が行き届かなくなります。
一人ひとり、あるいは一つひとつに対して「ていねいに」接することができなくなる。規模が大きくなることの弊害の一つです。ゆえに、人は大きい物事を「小さく分割して束ねる」という手法を生み出したわけですが、それは果たして望ましい解なのでしょうか。
「大きくなる」という問題に対する解ではありますが、その一方「そもそも大きくならないためにはどうすればいいか?」という問いもあるように思います。その問いに対する解の一つが「生活空間を小さくする」なのかもしれません。
「人類愛よりもこうした少数の人たちに愛情を注ぐことが必要」
この言葉にあるように、まずは自分の身のまわりから「ていねいに」接すること。
Small is Beautifulへの第一歩です。