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どこか似ている、どこか重なる〜連想とは、反射的な想像の連鎖〜

「どこか似ている、どこか重なる」

本を読んでいると、全く違う本に書かれていた内容が思い浮かぶことがあります。

この「思い浮かぶ」とは「意識的」に思い出すというより「反射的」に近い感覚があり、なぜその言葉が思い浮かんだのか説明ができないのです。

私にとって、この「反射的な想像の連鎖」が「連想」なのだと思います。

昔に出会った風景、言葉などがすぐに思い出すことのできる記憶としては色褪せてしまっているかもしれないけれど、無意識の世界では印象が色褪せることなく残っていて、むしろ時間の経過と共に余分なものが風化して深みを増しながら、何かと重なる、つながる瞬間を待っているのかもしれません。

デジタルデータとして気軽に映像や音声などが記録に残すことのできる時代だからこそ、むしろ、その自分自身の全感覚によって経験を積み重ねてゆくことが、再現性のない経験が希少になるのだと思います。

吾人の理性に訴えて描き出す幾何的の空間、至る処均等で等向的な性質を備えた空間は吾人の視感に直接訴える空間とは恐ろしく懸け離れたものである。視感的空間では仰向きの茶碗と俯向きの茶碗、一里を距てた山と脚下の山とはあまりに相違したものである。紙面に画いた四角でもその傾き方で全く別な感覚を起してもよいはずである。しかるにこのような相違を怪しまず当然としているのは、吾人が主観を離れた幾何学的の空間という標準を無意識あるいは有意識的にもっているためである。

寺田寅彦『万華鏡』

同様な事は聴官についてもある。雷鳴の音の波の振幅は多くの場合に耳の近くで雨戸を繰る音に比べて大きなものではないのに雷の音は著しく大きいと考えるのはやはり直接の感官を無視して音響の強度の距離と共に減ずる物理的方則を標準としているのである。

寺田寅彦『万華鏡』

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