「ゆらぎ」の中にある自由
今日は、三谷龍二さん(木工デザイナー)他による書籍『生活工芸の時代』より「藁人形 風車 ネズミ捕り」という節を読みました。本節の表題は、三谷さんがそれぞれ東京、ブタペスト、福岡で購入した小品のことです。
それでは、一部を引用してみたいと思います。
でも僕は、きれいに着飾る前のこのままの姿の方が断然面白いと思う。それは未完の魅力というのでしょうか、中断によって作者の意図や目的がことごとく停止、剥落してしまっているから、その分なにものにも属さない自由な空気が、溌剌とそこに立ち上がっているように見えるのです。
僕の目に触れるところにたまたま現われ、買った時期もバラバラ、三つを並べて置くという考えも、もともとありませんでした。そうした偶然をそのままに、好みの赴くまま自由に選択し、配置するというのが、僕は好きです。
しつらえや取り合わせという日本人が好んだスタイルは、西洋の石の家やブロンズ彫刻のように、いつまでも変わらない普遍的な美とはずいぶんと違ったものだと思います。手で押せばすぐに動いてしまうような不安定な状態を孕んだこの配置という愉しみは、一期一会の儚さを内包して、今ここに在ることがいいのです。
「未完の魅力、不安定な状態、一期一会の儚さ」
どれも心に残る言葉です。
未完は「完了していない状態」のことですが、そこには「完了」に向かう力が存在しています。たとえば音楽や映画など。「まだ終わってほしくない」と思うことありませんか。終わりを予感するとなおさらです。心が揺れ動きます。
不安定は「安定していない状態」のことですが、そこには「安定」に向かう力が存在しています。「定まらない」というのは、ある種の「運動」を想起させます。思索や探索。心の動き、身体の動き。個人の動き、集団の動き。
配置には箇条書きのように順不同の「並列」と、順番に意味がある「順列」があります。
そして「順列」には、その配置を決める人の「個性」が現れるような気がします。何かの明確な意図や論理があるのかもしれないし、なぜだか自分でも分からないけれど「しっくりくる」ということなのかもしれない。
初めから「この並びが収まりがよい」となる場合もあれば、「ああでもない、こうでもない」と試行錯誤を繰り返して「しっくりくる」瞬間の訪れを迎えることもあるかもしれません。
ある配置が何かしらの論理に支えられている場合は、その論理に従う限り、同じ並びになるのでしょう。どこから始めても行き着く先は同じ、ある意味で安定しているとも言えますし、いつも同じ先にたどり着いてしまい、逸脱ができないという意味では「不自由」とも言えます。
一方、三谷さんの言葉にあるように「好みの赴くまま自由に選択」した先にある配置には再現性がなありません。二度と再現できないかもしれない一期一会の儚さ、心がゆれ動く様子は寂しくもどこか「自由」な感じがします。
もちろん論理は大事ですが、偏りすぎないようにしたいものです。
考えすぎず、自分の気が赴くままに何かを並べてみる。
自分の直感を回復する術を教えていただいた気がします。