
「成長と労わりの無限循環」としての個人、社会の変容〜筋肉の超回復を下敷きに〜
筋線維がトレーニングによって損傷すると、その修復過程において筋線維が以前よりも少し太くなって修復される。
このメカニズムは「超回復」と呼ばれ、筋線維が修復される際に、筋線維の断面積が増加することで筋肉が大きくなる。
このメカニズムを少々細かく見ると、筋線維の外側には「サテライト細胞」と呼ばれる幹細胞が存在し、これらの細胞は筋肉が損傷した際に活性化し、分裂して増殖する。
増殖したサテライト細胞は、既存の筋線維に融合することで、筋線維の数を増やし、また太くする役割を果たしている。
加えて、筋線維の修復過程では、筋肉を構成するタンパク質(アクチン、ミオシンなど)の合成が促進され、特に、トレーニング後に成長ホルモンやテストステロンが分泌されることで、タンパク質合成が活性化され、筋線維が以前よりも太くなる。
翻って、「人間的な成長」もまた、このような筋肉の「超回復」のメカニズムを下敷きにして捉えることはできないだろうか。
すなわち、人間的な成長を「創傷と回復(治癒)の繰り返し」であるように思う。
たとえば、何かに挑戦して、物事が上手くいかない状況に直面する。
その時、人は何かしらの「傷」を負っていて、それを乗り越えるために何かを学んだり、人の助けを借りたり、時には一度休息を入れて英気を養うこともあるかもしれない。
そうした「困難を乗り越える過程」には何かしらの形での「治癒や回復」を伴うのではないだろうか。
治癒や回復が表現としてなじまないのであれば「埋め合わせる」とも言えるかもしれない。
筋肉も使わなければ次第に衰えてゆくのであるから、それに抗うには適度に負荷をかけて少しずつ成長させてゆく他ない。
このように考えると、筋肉、身体を含む有機的事物には「現状維持」は存在せず、あるのは「成長」か「衰退」のいずれかに思える。
そして、過度に負荷をかけては回復できないほど筋肉が損傷してしまうように、成長過程における「適切な負荷を推し量る」ことが重要であり、それらは時に「労わり」や「慈愛」として表現されるように思える。
「成長と労わりの無限循環」として、個人や社会が変容していくためには、一体何が必要なのだろう。
近時仏教界で、漸く田舎の無学の妙好人達が注意され始めたが、これは近時民芸品の存在が、漸くその脚光を浴びるに至ったのと同じだと思える。芸術史上この妙好品としての民器の位置は決して軽く浅いものではあるまい。近世は余りにも在銘品をのみ尊重し過ぎて来たのである。しかしこの世には如何に無数に無銘の名品が多いかを、もっと注意深く認識すべきであろう。それ故私の考えでは、将来の史家は当然無銘品の歴史の叙述と解明とに、更に多忙であるべきであろう。著名なものだけ列ねて綴る歴史は、決して公平でも妥当でもあるまい。それは丁度今後妙好人を忘れて仏教史を綴る事の不条理なのと同じである。
以上の事を別の言葉で述べると、今迄の芸術史はとかく自力美の歴史にのみ傾き過ぎて、殆ど全く他力美の史実を看却して来たと云える。なぜこうなったのであるのか。それは一つに近世が個人中心の見方で、偉大な個性即ち天才を異常に尊敬した事に由来するのを感じる。しかしもし他力の一道が美の分野でも充分認識せられたら、今迄の美の歴史は新しく書き更えられるに違いあるまい。なぜなら無数に他力の道で、無上に美しい品々が生産されて来たからである。不思議にも美の世界に於ける他力の道が看却されて来たのは、近世で美の問題が凡て西洋風な解釈に圧倒された為だと思える。しかしもし東洋人が目覚めて、東洋での美体験に根差して、東洋で発達した思索から美問題を整理するなら、西洋の美学とは全く別個の美学が可能であり、又これこそ却って逆に西洋美学への大きな貢献となるのを信じる。
