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「よどみなく」という表現について〜物事を流れに見立てる力〜

「会話の中にも流れがある」

テーマを決めてから話すのか、話しているうちに自然とテーマが決まっていくのか。

「テーマ(Theme)」とは「主題」であるけれど、「大きなうねり」というのか、「流れの中心軸」のようなものかもしれないと思う瞬間がある。

ひとたび流れの中心軸が決まると、その流れの中に支流としての多様な想いが合流し、融けあい一つになってゆく。

流れの中心の勢いが増してゆくにつれ、そこには躍動的なリズムが生まれ、そして、その躍動的な流れに一度乗ると、会話がそれこそ「よどみなく」進んでいく。

「よどみがない」とは、すなわち「澄んでいる」ということ。

「よどみなく」という表現には、「物事を流れに見立てる力」が秘められているように思う。

澄んだ水質、光を透過する水の性質、及び光や音を反射する水の性質は、純粋さや、清らかさ、あるいは美しさを伴った様々な水のイメージを指向する。「澄んだ水」が心を動かすことがある。無隣庵の沢飛石を渡るとき、水は足元に、澄んだせせらぎを見せていた。(中略)澄んだ水は、純粋・浄化・蘇生を暗示し、時間や空間を結ぶものとしてイメージされることがある。G・バシュラールは、澄んだ明るい水を「純粋な水」としてイメージし、「水は純粋さのあらゆるイマージュを歓迎する」と言う。

鈴木信宏『水空間の演出』

澄んだ水はまた、「清めるもの」として、イメージされることがある。(中略)銀閣寺には、「洗月泉」と呼ばれる滝がある。流れる水は、そこに映る月さえも清めるという。さわやかな水は、蘇生の水としてイメージされることがある。G・バシュラールは、「水はその新鮮で若々しい実体によって、われわれ自身がエネルギーに溢れていると感じるのを助けてくれる」と述べている。(中略)こんこんと岩間よりもれ出る水が、常に澄んでいる様は、時間や空間を結ぶものとして水をイメージさせることがある。『栄花物語』は、「いとどしく千代を限りてすむ水に久しく匂ふ白菊の花」と詠んでいる。

鈴木信宏『水空間の演出』


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