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不完全がゆえに、無学であるがゆえに美しいということ〜「不風流也風流」〜
ヨガに取り組んでいるうちに、少しずつ身体の一部分に意識を向けることができるようになってきた感覚があります。
「この部分はこう動かそう」とあれこれ思い巡らせながら身体を動かそうと試みている時もあります。
しかし、身体は「思ったように」動いてくれるとはかぎらないというのか、「動かしてみなければわからない」面があり、かえって動かす前にあれこれ考えてしまうがゆえに、実際が想像から乖離したときに意識が自然な動きを妨げてしまうことすらあります。
身体のバランス、動きが調和するときに思うのは、「部分最適の積み上げ」が「全体最適」をもたらすとはかぎらない、ということ。
むしろ、あれこれ考えずに、全体感・方向性を思い切って決めてしまうことで、その全体感・方向性の中心軸を補うように、部分部分が調和していくのではないでしょうか。
さて、仏教流にこの自在を省ると、自在な一分野が別個にあるわけではなく、人間が汚染なきそのままの状態に在れば、誰が何を何時作るとも自在に在る事を告げているのである。何故なら未だ二元に縛られない如々相が人間の心の故郷なのであって、何も自在にこれから入るのではなく、現下の這裡に自在がある事を説くのが仏法なのである。しかもかかる自在は何も特別な性ではなくこの有りのままそのままが則ち自在境だと説いて止まない。面白い事に念仏宗で済度を説く時、何か浄い人に成れとは決して云わない。浄くないままで救われる道が公約されているのを止まないのである。煩悩の身何かに変れと云われたら成れないのが当然だが、そのままでよいと弥陀仏は説くので、何人も救いから脱れようがないのである。
これと同じく実際には美しく作らねば、美しくなれないと云うのではなく、醜くても醜いままで、美しさに摂取される道があるのである。こんな不思議な原理が単に架空の考えでない事は、無数の無銘品や原始作品が、吾々に保障しているではないか。拙が拙のままで、無学が無学のままで、不完全が不完全のままで、美に迎接される光景は実に枚挙に暇がないではないか。穉拙が穉拙のままで無上の美に触れている場合を、誰も想い浮べ得るであろう。禅語に「不風流也風流」とあるがこれも美をつきとめた妙句だと云えよう。
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