「ムラがある」をポジティブに捉えてみる
今日は、三谷龍二さん(木工デザイナー)他による書籍『生活工芸の時代』より「生活を知らない」という節を読みました。本節の表題は、三谷さんが炊事という日常茶飯の小さな経験の積み重ねていると、炊事をしていない人との会話で戸惑うことがある、とするところからきています。
それでは、一部を引用してみたいと思います。
ごはんを炊くということもそうですが、生活する中で、僕たちは小さな悩みと、その解決や工夫を繰り返しながら、自分たちの家にあった方法やモノを選び取っています。そこで起きるひとつひとつのことは、まさに米粒のように小さなことばかりですが、それでもはじめて土鍋でごはんが炊けた時は嬉しかったし、鉄鍋に替えた時も、うまくいかず火加減や水の量、蒸らしの時間などを、いろいろ試したりしました。それらのことは今でもよく覚えているし、日常茶飯のそうした小さな経験の積み重ねは、実は自分にとって、決して小さくないものだと思えるのです。
要らないものを削り、本当に必要なものを残していくという取捨選択は、仕事の中でも常に要求されることですが、その判断の元にはいつも生活の経験がある。(中略)例えば鍋のはなしをしても、相手が日頃から炊事をしていない人だと、どこか実感のところで距離があって、気持ちがすれ違う。ベースのところで共通する経験を持てないから、話のやり取りもなんとなく頼りなく感じてしまうのです。
「どんなときにも、ひとは旅をしている。/何をしているときも、旅をしている。/旅をしていないときも、旅をできないときでも、/旅をしている。/目覚めての、朝の窓辺までの、ほんの数歩の旅。/古い木のテーブル周りを行ったり来たりの、/ただそれだけの旅。」(長田弘『空と樹と』より)
三谷さんの炊飯は、電気炊飯器から土鍋へ、土鍋から鉄鍋へと変遷したそうです。
電気炊飯器は高さがあり収納棚のおさまりが良くなく、土鍋でご飯を炊いたところ思ったよりも早く炊けたので土鍋に切り替え、土鍋が割れてしまったので、鍋類を「一器多用」にしたいと思い、鉄鍋に切り替えたそうです。
このエピソードだけでも、三谷さんの日常生活には「台所」と「炊事」が軸にあるんだなと感じます。
電気炊飯器は、お米の量と水分量が一定であれば「ワンタッチ」でほぼ均一に炊き上げることができます。それは炊事という営みにおける「利便性」あの極致とも言えるかもしれません。誰でも・手軽に・ムラなく。
一方、三谷さんも述べられているように、土鍋や鉄鍋による炊飯は、火加減や水分量、蒸らしの時間を毎回人が調整する必要があります。鍋が頃合いを見計らって、よい具合に仕上げてくれるということはありません。人が火や水、お米と対話する必要があります。
うまくいく時もあれば、うまく行かない時もあります。上手く炊けるとそれは嬉しいでしょうし、上手くいかなけば「それはそれでよし」と前向きに捉えて味わう。その中で「なぜ上手くいったのだろう?」「次はこうしてみよう」という気持ちが自然と湧き上がってくるのではないでしょうか。
私も実家に土鍋がありまして、たまに土鍋でご飯を炊きますので、三谷さんの気持ちわかる気がします。
「ムラがある」ということをポジティブに捉えたいです。
道具が便利になりすぎると「試行錯誤の余地が少なくなる」のかもしれないと思いました。それがよい悪いということではないのですが、人が手間ひまをかける余白のある道具(器)が人の創意工夫の素地となるのだとすれば、「便利すぎて不便なことはないだろうか?」という問いをたててみると、何かが見えてくるかもしれません。
長田弘さんの詩が引用されていましたが、「家の中だけでも旅はできる」というメッセージは「見慣れたものを新鮮に捉え直してみたらどうだろう?」という問いかけのように思えました。
「どうすれば新鮮に捉え直せるのだろう?」と考えてみると、三谷さんの鍋のお話、そして前回の土屋恵美子さんの「布のティシュケース」のお話と合わせてみると、離れて見るというよりも近くで「触れてみる」という見方があるのではないか、と思いました。
触れているうちに、そのモノの個性が引き出されてくるというか、自然とにじみでてくるのではないでしょうか。