「人間の顔をもつ技術」は、自立・創意工夫を支援する
本日でE・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第二部 資源」より「第五章 人間の顔をもった技術」を読み終えました。
今日は「小さいことの素晴らしさ」について。一部を引用してみます。
ところが、多くの国でそんな化学物質を使わずに、長い目でみて地力と健康を損なわずにりっぱな収穫をあげている農家の成功例があるのである。(中略)彼らのとった方法の特徴は、非暴力と、微妙きわまる自然界の調和のとれた体系の尊重であるが、この特徴こそが現代の生活様式と対立しているのである。
工業技術の分野には、中間技術開発グループ(Interrmediate Technology Development Group)がある。このグループは貧しい人たちのひとり立ちを助ける方法の体系的研究を任務としている。このグループによって人間の顔をもった中間技術というものが真に可能であり、生命力をもち、それによって器用な手と創造力に溢れた頭をもつ人間を、生産的な活動の中に組み込めることが証明されたからである。中間技術は大量生産ではなく、大衆による生産に奉仕する。
私は技術の発展に新しい方向を与え、技術を人間の真の必要物に立ち返らせることができると信じている。それは人間の背丈に合わせる方向でもある。人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。巨大さを追い求めるのは、自己破壊に通じる。
「人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしいのである。」
本書のタイトル「Small is Beautiful.」に通じるこの言葉が印象的でした。
「人間は小さいものである」とは、どのようなことなのでしょうか?
農家の例での「非暴力と、微妙きわまる自然界の調和のとれた体系の尊重」という言葉を手掛かりにすると、そこには「人間と自然」が対比されていることが分かります。
「人間は小さいものである」という言葉に含まれる大小関係が相対的なものであるとすれば、人間は自然(の雄大さ)に比べれば小さな存在にすぎないということでしょうか。
現代では人工的に農作物の栽培が出来るわけですが、全くのゼロから作物を生み出しているわけではなく、元を辿れば自然の恵みを分けて頂いているに過ぎません。非暴力とは「自然に対する暴力的な営みを行わない」という事であり、これは(制御可能な)技術により自然を全てコントロールしようとしていない、ということを意味しているように思います。
また、工業分野における「中間技術」の事例の中において「貧しい人たちのひとり立ちを助ける」という言葉が使われています。「ひとり立ちの支援」もまた「非暴力」の表れであると感じるのは私だけでしょうか。
本書において著者は、大量生産・大量消費が進む1970年代のイギリスを例に「省力機械の増加に伴い、余暇の量が減っている」との命題を導きました。
「省力機械の導入によって、人間は労働から解放されるはずではないのか」という問題意識の裏返しです。「人間の顔をもたない技術」が導入されると、仕事の枠組みが機械によって規定され、創意工夫の余地を失います。
人間の想像力・創造性を解放する技術。誰もが自由に用いることができて、創意工夫を支援する技術。誰も支配しない、暴力的ではない技術。こうした技術が浸透することで、社会が生命的になっていくのだろうという感覚が芽生えてきました。
「Small is Beautiful」
胸にしまっておきたい言葉です。