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「言葉の意味は広すぎる」ということから〜組み合わせを通じた有限と無限の調和〜

昨晩、友人と食事をしていると、友人から印象的な話がありました。

「自分には伝えたいことが沢山あるのだけれど、ピタッと当てはまる言葉が見つからないことがある。言葉は広すぎる」

「言葉は広すぎる」というのは、一つひとつの言葉の意味が多義的であるということ。

言葉の意味の多義性は便利なのでしょうか、それとも不便なのでしょうか。

言葉の意味は、その言葉ひとつだけを切り出せば、たしかに色々な意味に取ることができます。

しかし、言葉が文脈の中に並べられると、他の言葉との前後関係から多義的だった意味、解釈の幅が次第に狭まってゆきます。

逆に言えば、言葉の意味の多義性はとても理にかなっていて、言葉と言葉の組み合わせによって「有限の要素(言葉)で無限(の意味)を作り出そうとしている」のではないか、と思うのです。

組み合わせの数は「掛け算」で増えていきます。各要素に「組みに入れる・入れない」の2つの選択肢があるとすれば、要素が2つあれば4つ(=2✖︎2)の組み合わせが、3つの要素であれば8つ(=2✖︎2✖︎2)です。

組み合わせの数は「非線形的」に増加していきます。

言葉の意味・解釈の幅を狭めて、意図を明確にするためには適切な冗長性が必要であるということに、有名な物理学者アルベルト・アインシュタインの言葉「Everything should be made as simple as possible, but not simpler.(ものごとはできるかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない。)」が重なるのでした。

日本の古典文学における水音もまた、様々な心の動きをつくり出すものであった。それはまず、涼しいものであり、趣のあるものであった。『源氏物語』は「遺水の音がまことに涼しそうで……」と記し、『栄花物語』は「笛の音も琵琶の音も、瀬ゞの河浪に紛ひていみじくおかし」と表現している。秋の滝や、荒波は、もの哀れにして、心にしみるものであった。「前裁も築山の木々もすっかり紅葉し……風もようやく荒くなり、南の築山から落ちる滝の音がいとも哀れに響くようになった」(『宇津保物語』)。

鈴木信宏『水空間の演出』

水音は、もの恐ろしきものであり、気持ちを乱すものであった。「川風がまことに荒々しいうえに、木の葉の散り乱れる音や、流れの響きなど、風情を通り越して、もの恐ろしく心細いあたりのさまである」(『源氏物語』)。「水の音が聞こえている間はお気持がお乱れになるばかりで…….」(『源氏物語』)。冬の遺水の音は、いいようもないほど寂しいものであった。「月は暗がりが残らぬほどにさし出て、…….遺水もほんとにひどくむせび泣いているようで、池の氷もいいようのないほどさびしく…….」(『源氏物語』)。京都遠く離れた庵のそばを流れる川の音は、心細いものであった。「千蔭はその後、都離れた山里に、かりそめの庵を建てて住んだ。……音羽川の流れや滝の音があわれに聞こえ物思わぬ人でさえたいへん心細いところであった」(『宇津保物語』)。

鈴木信宏『水空間の演出』

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