日々の生活にユーモアを(Que Será, Será)

ミゲル・シガール氏による書籍『プレイ・マターズ - 遊び心の哲学』を読みました。今日は「遊びと笑い」について。「1章 遊び」より一部を引用してみます。

何のプランも説明書もなしにブロックを組み立てているとき、わたしはたまに、それが崩れるところを見たいというだけの理由で、できるだけ背の高い建物を作ろうという誘惑に駆られることがある。不安的なブロックのてっぺんにひたすら新しいピースを積み重ねていって、できるかぎり高くすることを目指す。それから、できあがった自分の作品を見つめ、それをちょんと押す。時間を浪費する快、そして崩れたピースが床に散らばる快。これらは破壊的な遊びの快、つまりアポロン的な世界の建造物にディオニュソス的な終わりをもたらすことだ。
カーニバルは、楽しみというよりは笑いを引き起こす。笑いは、支配者層が持つ抑圧的な権力を一時的に無効にすることで、[既存の]ものの見方 - 真実をかたち作るもの - を乗っ取り、[別様の]ものの見方の可能性を開く。どのような見方をとるかは自由である。笑いが生まれるには、制度に縛られた世界からの解放という意味での自由が必要だが、同時に笑いは[ものの見方を変えるという意味での]自由を生み出すものでもあるのだ。
そういうわけで、[第二に]遊びはカーニバル的なものである。遊びは、笑いの姿をとって創造と破壊の釣り合いをとろうとする。遊びは、このカーニバル的な緊張関係を具体化する特性を[笑い以外にも]数多く持っている。

「ユーモア、風刺、笑い」

今回は文章を読みながら、チャールズ・チャップリン主演の『モダン・タイムズ』という作品のことを思い出しました。

この作品は、資本主義社会や機械文明を題材に取った作品で、労働者の個人の尊厳が失われ、機械の一部分のようになっている世の中を笑いで表現したものです。チャップリンが歯車に巻き込まれるシーンはご存知の方も多いのではないでしょうか。

もしこの作品に「笑い」がなかったとしたら、作品を見終わった後に陰鬱な気持ちしか残らず、受け止めきれないように思います。逆に喜劇的なものとすることで、気持ちを沈ませるのではなく「何かを変えていかなくては」と活力をオーディエンスにもたらしてくれる。そんな思いが込められいるのではないでしょうか。

「変化が加速する時代。生き残るために自らを変革しなければならない。」

様々なメディアを通して、このようなメッセージを見かけない日はない今日この頃です。

環境が変化し続けていることは言うまでもありません。経済、社会、前提としての地球環境。

変化を積み重ねる上で忍耐も必要だとは思うものの、それだけではどこかで行き詰まってしまうような気がしています。

「自分は自分」と変化を楽しむことが出発点なのではないでしょうか。

そんなことを考えていたら、「Que Será, Será(ケセラセラ)」という言葉を思い出しました。肩の力がスッと抜けるような爽やかな響きで何度も口ずさみたくなる言葉です。

一般に「なるようになる」と和訳されますが、「物事は勝手にうまい具合に進むもの」「だからあれこれと気を揉んでも仕方がない」「成り行きに任せてしまうのがよい」という意味合いもあります。

コロナウイルスの話題などで暗くなりがち昨今ですが、だからこそ、日々の生活にちょっとしたユーモア、笑いを取り入れていきたいと思いました。

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