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個人的な合理性は存在しない?

今日も引き続き『ソーシャル物理学 - 「良いアイデアはいかに広がるか」の新しい科学』(著:アレックス・ペントランド)より「集団的合理性はあるが個人的合理性はほぼない」を読みました。

「人間は理性的、合理的な存在である」と言われることがありますが、はたして本当にそうなのでしょうか。「自分が何がほしいのか」という欲求が明確に存在し、その目標を達成するために望ましい、最良の行動を取る。実際には、そのように判断、行動していることのほうが稀ではないでしょうか。

ここまで見てきたように、新しく収集されるようになったデータは、この捉え方を変えつつある。人間の行動の多くを左右するのは、理性や個人的な欲求というよりも、彼らが置かれている社会的な環境であることが明らかになり始めた。(中略)しかし私の研究が示しているように、人間の欲求や意思決定はしばしば(「一般的に」と言いう表現を使っても問題ないだろう)、ソーシャルネットワークから影響を受けている。

欲求や意思決定がソーシャルネットワークから影響を受けている。ソーシャルネットワークと聞くと、いわゆるインターネットを介してつながりあったSNSを思い浮かべますが、必ずしもそれだけではありません。

国、地域、コミュニティ。同じ地球人という観点では、顔の見えない人たち、知らない人たちとつながり合っています。自分が過ごす環境は、その中で過ごす時間、経験の総体が自己を形成していく素材のように思います。

環境を与えられて過ごすこともあれば、自ら過ごしたいと思う環境を発見、探求していく。居心地のよい場所、よくない場所。相互を行き来しながら、自分が大切にしていることは何かに気づいていくのではないでしょうか。

私たちが何を求め、何に価値を見出すのか、また欲求を満たすためにどのような行動を選択するのかは、他人との交流のあり方によって常にその形を変えている。私たちのデータは、それを明らかにした。人間の欲求と嗜好を形作る上で重要な影響を与えるのは、生物学的な動因や先天的な道徳心に基づく理性的な内省ではなく、コミュニティの仲間たちが何に価値を認めているのかという点なのである。

「コミュニティの仲間たちが何に価値を認めているのか?」が人間の欲求や嗜好を形作る上で重要な影響を与えている。「案外そうかもしれない」と思います。

「どこで過ごしたか?」よりも「誰と過ごしたか?」が今の自分を形作っているような気がします。思い返されるのは、特定の人の顔だからです。その人たちと過ごした経験が身体化されていて、無意識の選択や行動につながっている気がします。

「何を大切にしている、誰と過ごしたいのか?」という問いもあれば、心地よさが裏側に潜んでいるならば「その人と過ごしていると心地よいのはなぜだろう?」と問うてみるのもよいかもしれません。そこには言葉では語り尽くすことのできない部分があるのではないでしょうか。

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