「思っていること」を文字に起こしてみたり、図や絵などで描いてみると、「あれ?なんだかしっくりこない」と感じることがあります。
が、それはそれでよいのだと思います。
「なぜ」しっくりこないのか。
「どこが」しっくりこないのか。
「何が」しっくりこないのか。
「どのように」しっくりこないのか。
その「しっくりこない」を削ぎ落としていく。
あるいは「しっくりこない」を整えるために何かを足していく。
理論物理学者リチャード・ファインマンは次のような言葉を残しています。
いくつかの日本語訳がありますが、「本当に理解したものはつくれるはずだ。つくれないならば本当に理解していない。理解したかどうかは創造することによって検証できる」というのがその一つです。
何かを表現した時の「しっくりこない」感覚は、おそらくは「表現の対象」以上に「自分のこと」を理解していないということなのかもしれません。
そこには削ぎ落とすことで生まれる余白、あるいは埋め合わせられる余白がある。
まだ見ぬ自分自身を見つけるためには、何かを表現してみるしかないのかもしれません。
その表現というのは、何も「意識的に」あるいは「意志をもって」表現することにかぎりません。
無意識のうちに、自然と自分からにじみ出ていること、「佇まい」そのものも表現に含まれるように思うのです。