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「しっくりこない」という感覚〜思うことと、表現することのあいだ〜

「思っていること」を文字に起こしてみたり、図や絵などで描いてみると、「あれ?なんだかしっくりこない」と感じることがあります。

が、それはそれでよいのだと思います。

「なぜ」しっくりこないのか。
「どこが」しっくりこないのか。
「何が」しっくりこないのか。
「どのように」しっくりこないのか。

その「しっくりこない」を削ぎ落としていく。
あるいは「しっくりこない」を整えるために何かを足していく。

理論物理学者リチャード・ファインマンは次のような言葉を残しています。

“If I cannot create, I do not understand”

いくつかの日本語訳がありますが、「本当に理解したものはつくれるはずだ。つくれないならば本当に理解していない。理解したかどうかは創造することによって検証できる」というのがその一つです。

何かを表現した時の「しっくりこない」感覚は、おそらくは「表現の対象」以上に「自分のこと」を理解していないということなのかもしれません。

そこには削ぎ落とすことで生まれる余白、あるいは埋め合わせられる余白がある。

まだ見ぬ自分自身を見つけるためには、何かを表現してみるしかないのかもしれません。

その表現というのは、何も「意識的に」あるいは「意志をもって」表現することにかぎりません。

無意識のうちに、自然と自分からにじみ出ていること、「佇まい」そのものも表現に含まれるように思うのです。

これは簡単なことで、ごく単純なデッサンでもやってみれば誰でもただちにわかることです。たとえば、ここに一本の瓶があるとして、これを絵に描こうとして鉛筆で線を引っぱってみますと、たちどころに私はこの瓶をじつはよく見ていないということに気がつくものです。はじめ私がこの瓶を見たときに、私の心の中に生まれた瓶のイメージというものは、鉛筆を持って絵に描いてみると、たちまち思いがけない仕方で修正されます。これは描いてみないとけっしてわからないもので、手を動かさないと、人は目前の瓶をみながら、現実の瓶と異ったかたちをいつまでも本物だと思って見ていることになります。手を使って描いてみたときに、人ははじめて自分は何も見ていない、自分の内部にあるイメージは非常に幼稚なものだ、ということに気がつくはずです。

山崎 正和『混沌からの表現』

思想とか思いつきというようなものでも同じことであって、人はしばしばたいへんうまいアイディアを持った、あるいは着想を持ったと感じるのですが、これを実際に文章に写して書いてみると、じつに陳腐なものであることを発見したりするものです。これを裏返していえば、むしろ、書くことによって、逆に自分の着想というものを深めたり、育てたり、あるいはまったく違ったかたちに変えることができるということです。(中略)こう考えると、芸術というのは、本来はある種の力仕事であり、あるいは肉体労働であるといってもいいでしょう。その肉体労働をすることによって、精神はそれ自身も予想できない飛躍をするのですが、その要素が、現代芸術の中には欠けているか、あるいは極めて少なくなっているということが注目に値するのです。

山崎 正和『混沌からの表現』

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