一回性と意味
今日はミハイ=チクセントミハイ(アメリカの心理学者)による『モノの意味 - 大切な物の心理学』の第3章「家の中でもっとも大切にしている物」より「写真」を読みました。では、一部を引用してみたいと思います。
しかし、写真を撮る過程と絵を描く過程とのあいだには明確な違いがある。第一に、写真作品は芸術家の集中した注意によって形作られるものではない。写真は、そう働くようにそれ自体が人間の意図によって作られた機械の作動した結果である。今日のカメラでは、きれいな写真を撮らないことのほうが難しい。これは必ずしも、写真芸術家が傑作を生み出すのに技能や集中力を要さないことを意味するわけではない。しかし、機械が媒介することで、制作過程ひいては鑑賞過程をも変えるだろう。
写真が大切なものとしてあげられた理由のうち、二七パーセントが「思い出」に、二六パーセントが回答者の「肉親」に言及している。これら二つのカテゴリーにこれほど理由が集中する物は他に見当たらない。明らかに写真は、近親者の思い出を保っておくための最良の手段なのである。それゆえ、写真は年長回答者によってしばしば「他に代えがたいもの」とみなされている。亡くなった近親者の写真は、中年世代の人でもしばしば生々しい感情を引き起こす。
ある成人の女性は、ホール正面に掛けてある弟の写真が、なぜ自分にとって特別なのか、次のように説明してくれた。
あの写真は、私たちが持っている弟の写真のなかで唯一きちんと写ったものなのです。彼のことをしっかり思い出したり、当時をふりかえったりするのに、あの写真が一番いいのです。弟はもう亡くなっていて、今はもうこの世にいないのですから。
著者が「モノと人の関係性」について考察するため、1977年にシカゴ都市部に住む82家族に実施したインタビューの中で、大切なものとして「写真」をあげた人が「全体の23%(N=315)」にのぼりました。
私の実家には幼い頃の写真、両親の写真などが飾ってあり、時折見返しては懐かしい思い出に浸ることができます。たしかに写真を見ると、過去の時間が写真の中に保存されていて、そのときの情景や感覚がよみがえってくる気がします。写真は過去と現在をつなぐ触媒のような役割をはたしているのかもしれません。
「大切にしている写真はあるだろうか?」と自問してみると、ふと気になったことがあります。いまや写真は「データ」として保存された存在であってデータとしての写真に「大切さ」というものを感じにくくなっているということに。
印刷した写真は時間と共に色褪せたりしますが、その古びてゆく様が「時間の経過」を感じさせたり、あるいは、デジタルデータのように分散して保存することで簡単に復元できるようなものではないからこそ「大事に思う」気持ちが湧き上がってくるのではないだろうか、と。
復元できない。やり直しがきかない。
そのような「一回性」にこそ「大切にする気持ち」が宿るのかもしれない。
意味と一回性の関係。