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身体の相似拡大性、そして自己拡張〜際立った変化は感じないけれど、それでいて全体的に広がったように感じる心地よさ〜

ヨガに取り組んでいると、日々、自分の身体の状態は違っていて、バランスが取りやすく感じる時もあれば、そうでない日もある。

だからこそ「今日は良かった」「今日は良くなかった」と比較、評価せず、「今日は今日のヨガだった」と、身体との一期一会を大切にしている。

だけれど、あえて「どんな時が良いヨガなのだろう?」と自問してみると、「バランスが上手く取れた」とか「ストレッチが効いた」ということより、取り組み終わった後の感じ方が違うように思う。

具体的には、ヨガを取り組んだ後の感じ方が、ヨガに取り組む前の状態から目立って大きな変化は感じないけれど、「全体的にほんの少し広がった感じ」がする時。

呼吸に一寸の乱れもなく、特定の部位に窮屈さを感じることもなく、それでいて自分が少しだけ大きくなったように感じて、心地よい。

「身体が相似拡大的に拡張してゆく」心地よさとも言えるかもしれない。

ここでふと、「人は自分を自分の外にまで拡張する力」を持っているのではないかと思う。

たとえば、自動車を運転している時。

アクセルとブレーキ、ハンドルを巧みに操作しながら車を操っているわけだけれど、自分の視界の外、車の後輪や車体の端が「だいたいどの辺か」を、自分の延長として、あたかも自分と一つであるかのように感じ取りながら、自然に成し遂げている。

相似拡大的な拡張は、元の状態を保持し続ける意味で「調和が取れている」のだと思う。

それでは自由の美は、どういう様相を外に現してくるか。著しい一つの現れは「奇数性」ということなのである。自由に入れば完全さや偶数に囚われないから、おのずから奇数になるのである。それ故もし新たに奇数に囚われるなら、再び不自由に戻って了う。この奇数美を近代では破形(デフォルム)という言葉で現わして来たが、かかる美は要するに、不均整、不完全、不整形(つまり奇数性)ということに他ならない。

柳宗悦『仏教美学の提唱』

たとえば手紡手織の布が美しいのは、機械で紡がれ織られたものより、不均斉を示すからである。例えば焼物で旧呉州(天然コバルト)が美しいのは、その色に複雑な交りものがあって、色に不均斉があるからである。これを色に影があると形容してもよく、この影が色に奥行を与えてくれるのである。何れにしても色が平均していないのである。或はこれを「不純度」があると説いてもよい。その「不純度」に「旧呉州」伸びがあるのである。不純度は謂わば色の奇数性と考えることができる。

柳宗悦『仏教美学の提唱』
書肆心水オフィシャルサイトより

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