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手放すこと、浮上、そして蘇生〜水より比重の軽い物は浮かび上がる〜
少しずつ空気を吐き出してゆく、全身の力が抜けて水に身体が沈んでゆく。
余計な力が抜けるに連れ、意識が自分を取り囲む水に広がり、解けてゆく。
どこから自分でどこからが水なのか。
自分と水のあいだ、境界が曖昧になってゆく。
何か道筋を見出したいとき、あるいは道筋が見えてくるとき。
それは「深い底から浮かび上がってくる」感覚に似ているのかもしれない。
「浮かび上がる」とはどういうことだろうか。
自らの力で浮かび上がってゆくことも、他者の力を借りて引き上げてもらうこともできる。
それ以外の方法は何か存在しないのだろうか?
「水より比重が重い物は沈み、水より比重が軽い物は浮かび上がる」という物理を参照するならば、自らが背負うものを手放す(比重を軽くする)ことで、意識されなかった周囲の力(自然)を借りることができる。
「深さを持つもの」という水のイメージがある。どこまでも清く澄んだ然別湖の水や、水底をすかして見せる河文の水がこの例である。水が濁っていて、そこが見とおせないとき、その水が「測り知れない深さ」を指向することがある。四大海はこの上もなく深い水であった。『栄花物語』は、「その御心ざし須弥山よりも高く、四大海よりも深し」と記している。(中略)水に映る像によって、水の深さがイメージされることがある。(中略)また、古く平安の文学も、水における月や、空や、柳の反映に「水の深さ」をイメージしている。
水の深さとその水のある空間に対する知覚は「空間を深めるもの」を指向する。(中略)また、保津川の幅広く、静かな流れは、嵐山をそこに宿して、岸辺の空間に、嵐山の深さを与える。水は風景を生けどって、空間を深めている。水は己より比重大なる物を沈める。故に、深さを持つ水は、物を沈めるものとしてイメージされることがある。深さを持つ水への人体の入水沈下に対する視覚や触覚は、「人を沈める水」を指向する。そして、多くの場合、このイメージは恐怖の感情を伴う。(中略)物を沈める水が恐れを意味するのに対し、浮上させる水は蘇生を意味することがある。G・バシュラールは「ひとは新しく蘇えるために水の中に漬かるのだ」と述べ、(中略)『広辞苑』によれば、「浮沈」とは、繁栄と衰微を意味する。