
「在るがまま」の自分 - 不動点としての自己(Self as a fixed point) - f(x) = x
昨日、ヨガに取り組む中で「内側に向かう力が中心軸を通って外へ向かう力に転じる」感覚が芽生えてきたことを綴りました。
今日も淡々と中心軸を意識してヨガに取り組んでいたわけですが、ふとした瞬間に「何かに取り組むことを通して、いつも自分に立ち返っている自分」を思っていると、「不動点としての自己」という言葉が降りてきました。
「不動点」とは数学における「ある性質を満たす点」のことで、以下のように定義されます。
数学において写像の不動点あるいは固定点(fixed point)とは、その写像によって自分自身に写される点のことである。x が写像 f の不動点であるとは、f(x) = x が成り立つときに言い、かつそのときに限る。(中略)有限回の反復で元の値に戻ってくる点は周期点として知られる。不動点は周期が 1 に等しい周期点である。

xを「自分」、そしてf(x)を「自分の経験(知覚や行動など)」と捉えると、「f(x)= x」とは「自分が経験するあらゆる物事が自分そのものである状態」であり、すなわち「在るがままの自分」であり、「物事を直観している」ということでもある。
そんなことを思ったのです。
上に引用した「不動点を三つ持つ関数」が存在するように、複数の不動点が存在することに照らしてみれば、「在るがままの自分は一つとはかぎらない」のかもしれません。
色々な自分がいて、それらの総体としての「在るがままの自分」だとすれば「まだ見ぬ在るがままの自分(新しい不動点)」に出会い続ける、あるいは出会い直すことこそ意味があるように思えるのです。
「f(x) = x」というシンプルで美しい数式で、「ありのまま」「あるがまま」を捉えることができるかもしれない。
それが正しいかどうかは分かりませんが、私の中ではどこかスッ…と腹落ちしたというか、「美しさ」や「調和」が見えたような気がしたのです。
さて分別の対象となり得ない事は、それが分別未生の境から発している事を告げてくれる。同じく美を観る場合も分別未生の心で観る要があろう。つまり「ありのまま」の心境で美を受取る以外にはない。「直観」とは「そのままの受取方」を意味しよう。美への理解には知識より直観が必要な必然の理がここにあろう。知の分析だけでは美は決して理解されない。ここに又美問題の困難さがあろう。美への理解は知解に止まる事が出来ないのである。
故に美を「見る」事が美を「知る」事に先行する必要が常に起ってくる。故に見る事から知る事が発しなければならない。逆に知る事から見る事を得ようとしても本末の顚倒となろう。美学の前には美体験がどうしても必要になる。美を論じて美の観えぬ美学者が往々あるが、致命的な悲劇に終ろう。然るに見る事からは知る事を引き出す事が出来る。それは丁度一枚の紙を幾つかに切る事は出来るが、一旦切られた紙片をいくら寄せても元の一枚には戻らぬ。一個の花を花弁、雄蕊、雌蕊等に分け得ても、一旦分れたものを繫ぎ合わせても元の活きた花には帰らぬ。丁度これ等の譬えと同じく、直観から分析は得られるが、分析からは直観は出て来ないのである。それ故直観こそ分析を可能にするが、分析は直観を把握する事は出来ない。把握したと想う時、直観は既に去って了うからである。
