「全体は部分の単純な総和ではない」という言葉の感触
今日は蔵本由紀さん(物理学者)による書籍『新しい自然学 - 非線形科学の可能性』より「多様性・個別性の発現」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。
一般システム理論的な立場から、しばしば「全体は部分の単純な総和ではない」という主張がなされる。システムに全体として現れる様相は、システムを構成する部分をいくら詳しく調べても見出すことができないという主張である。それを無視した科学は「要素還元論」的科学として批判される。しかし、このような主張は「部分」とか「要素」とか言われるものの意味について少し無頓着すぎるのではないだろうか。
たとえば、原子集団というシステムを考え、個々の原子を要素としよう。量子力学の講義の題材になるような一個の孤立した原子は虚空の中の原子であって、原子集団の構成員としての一原子ではないということに注意しよう。だから孤立した原子をいくら調べても原子集団の様相が見られないのはまったく当然なのである。
それならば原子集団の一員としての原子を詳しく調べたらどうか。ところが、このような原子は他原子と複雑に衝突を繰り返しきわめて複雑な運動をおこなっている原子だから、それを記述することはまず不可能なのである。したがって、「個々の要素を詳しく調べても全体的な様相が見出せない」のではなく、詳しく調べようにも調べようがないのである。
「全体は部分の単純な総和ではない」
この言葉はこれまで幾度も耳にしたことがあります。
「何か」と「何か」がつながっていて、お互いに影響を及ぼしあっている。つながりの力が重なりあって全体を形作っているとしたら、そのつながりを無視してはそもそも全体を捉えていることにはならない。そのように思っていました。
読みながら、ふと「家族って何だろう?」という問いが浮かんできました。原子集団を家族、原子を家族一人ひとりとして捉えてみたくなったのです。
夫婦と子供。一人ひとりが「どんな人であるか」が分かれば、家族について分かったことになるのでしょうか。決してそのようなことはないはずです。
「家族のつながり」に意識を向けなければ「家族とは何か?」を考えることにならないと思うのです。「仲が良い」「笑顔がたえない」というように、つながりを感じさせる何かがあるはずです。
挨拶をする。食事をする。一緒に出かける。相手を気づかう。そのような日々の関わり合いの積み重ねが「つながり」を作っています。
「原子は他原子と複雑に衝突を繰り返しきわめて複雑な運動をおこなっている原子だから、それを記述することはまず不可能」との著者の言葉を借りると、家族一人ひとりが常に決まった状態にあるわけではなく、決まった行動をしているわけでもありません。
家族だからといって四六時中いつも一緒にいるわけではありません。お互いが離れているところで、それぞれに起きた出来事があります。たえず心身の状態が変化しています。一人ひとりですら複雑なのです。
それでも「つながり」が保たれて、離ればなれにならないためには、互いに引き合う「何か」があるから。その「何か」をすべて詳細に記述できないとしても「やっぱり家族だよね」という実感がある。
「詳しく調べようにも調べようがない」という著者の言葉は、たしかにそのとおりかもしれません。
「家族とは何だろう?」という問いは「全体は部分の単純な総和ではない」という言葉に関して、私にたしかな感触を与えてくれました。