どこからどこまでが「作る」なのだろう?
今日は、三谷龍二さん(木工デザイナー)他による書籍『生活工芸の時代』より「あたりまえのかたち」という節を読みました。一部を引用してみたいと思います。
時代の流れは、いいものも悪いものも呑みこんでいきます。作ることばかりがデザインの仕事ではありません。よいデザイン、よいかたちを積極的に評価し、それ以上何もしないということも、デザインの仕事なのです。何も足さない、何も引かない、作らないことも、作る仕事のひとつです。
襟つきの綿や麻の白いシャツは、いつまでも変わらない輝きをもっている。そしてそのことを作る側だけでなく、着るひとも共有して持っていることが、デザインの成熟ということだろうと思います。消費者がその変わらない良さを理解し、受け入れる基盤があるからこそ、デザインもラインや襟などの小さな変更(声)だけで、それ以上をする必要が無くなる。ただそれだけで、着るひとにも十分伝わっていくからです。
そんな風に市場(文化)が成熟すると、価値の共有が生まれるから、デザインはできることの範囲を広げ、その質を豊かにすることができる。啓蒙から教官への時代の変化は、成長期から成熟期に移行したというひとつの表れだろうと思います。
「何も足さない、何も引かない、作らないことも、作る仕事のひとつです」
とても印象的なのは、この言葉。
「"作る"とは、どういうことだろう?」
真っ先に浮かぶのは、この問い。
作るとは、どういうことでしょう。何かに「手を加えること」でしょうか?
例えば、切ったり、つなげたり、混ぜ合わせたり、形を変えたり、組み合わせたり。
ですが、ふと思ったのは「いきなり手を加えるだろうか」ということです。
ごくわずかな時間だったり、じっくり時間をかけたり、いずれの場合もあると思いますが、その何かを「観察する」というステップが入っています。
意識していようと意識していまいと、何かを「感じ取っている」はずです。
そう思うと考える問いは「どこからどこまでが"作る" なのだろう?」のほうが良さそうに思えます。
「付加価値」という言葉があります。
いつの頃からだったか、気付いた時には「付加価値」という言葉に囲まれた生活が始まっていました。
「付加(する)価値」と(カッコ)の中身を、いつの頃から頭の中で勝手に補完していました。
ですが「消費者がその変わらない良さを理解し、受け入れる基盤」が整うと「デザインが成熟」する、つまり「付加(しない)価値」という価値が共有されていくという三谷さんの言葉にハッとしたんです。
「無添加」という言葉があります。
社会に広く浸透している言葉の一つだと思いますが、まさに「ありのまま」つまり「付加(しない)価値」を体現しているように思います。
「ありのまま」を届ける。
「ありのまま」を受け取る。
「ありのまま」をいただく。
この流れ全体を「ありのままを"作る"」と表現してみてもよいのではないでしょうか。
「手を加えること」の良し悪しを言うつもりはありません。
まずは手を加える前の、起点としての「ありのまま」を知り、見つめることから始めたいなと。そう思うのです。