「流れを一極に集中させない」ということ
ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「金融市場を通じた<負債>の増大」を読みました。
テーマは「負債と金融市場」について。一部を引用してみます。
実際、現代の金融市場は「富を一極に集中させる」装置として働いている。それが可能なのは、金融市場が「富を流動させている」からである。いや、「富の流動」が問題なのではない。問題は「流動の結果」だ。
フランスの経済学者、フランソワ・ラクリーヌは、モースの『贈与論』をもとに、「原始社会」での経済を参考にして、金融市場が本来、果たすべき役割を説いている。ラクリーヌによると、原始社会での交換の目的は、必要を満たすことでも、財産を獲得することでもなく、首長の気前の良さにのっとって富を循環させることであるが、現代における金融の役割もそうであるべきだというのである。
これはもちろん、「投資」によって金が循環して、富の再分配が行われることを念頭に置いたものだ。しかし、現実の金融市場で行われていることは、それとはちがっているように思われる。確かに金融市場に投機マネーが投下されることによって、富は流動している。だが、それは「原始社会」の首長がするように、富を循環させて再分配を行ない、不均衡をなくしていくためのものではない。最終的にはひとつのところに集まって、不均衡を拡大していくためのものなのである。富は、流動しながら、一極に集中していく。そうして、昔だったら考えられないくらい大規模の<負債>を大量に生み出していくのである。
「原始社会での交換の目的は、必要を満たすことでも、財産を獲得することでもなく、首長の気前の良さにのっとって富を循環させることであるが、現代における金融の役割もそうであるべきだというのである」
この言葉がとても印象に残りました。
金融市場が発達する以前は、個人が金銭を借りることは今まで以上に容易ではありませんでした。
現代では個人向け融資としての「クレジットローン」が浸透していますが、自分が財産のよき「管理者」でなければ、生活が破綻し多額の負債を抱える可能性があります。そして、そのような可能性が現実のものとなった場合の法整備も進んでいます。
金融市場では莫大な資金が動いているわけですが、「その資金の流れがどこに向かっているのか?」ということに意識を向けることが、日々の生活の中でどれだけあるでしょうか。
原始社会における交換の目的は「富を循環させる」ことにあり「財産を獲得すること」ではない。これは現代の言葉にすれば「再分配」が目的だったとなるわけです。
「ある場所に流れが集中すればするほど、他の場所での流れが滞る」
そのような出来事が思い浮かぶことはないでしょうか。
例えば、川の上流にダムを作ることを考えてみます。極端な話、川の流れをせき止めて、全てのの水を上流だけで使うようにしたとすれば、下流に住む人たちは水の恩恵を享受することはできません。
上流に流れる水は、下流を通じて海に流れ出た水が蒸発して還元されたものであり、自然の循環がもたらしたものです。
「首長の気前の良さにのっとって富を循環させる」という言葉は、現代ではイメージが湧きにくいかもしれません。そこで自然における「循環」の過程に置き換えてみるとどうでしょうか。自然は「気まま」です。
あらゆるものが流れ続けるけれど、一極に集中することのない社会こそが、「豊かな社会」と言えるのではないだろうか。そのように思いました。