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「断つ」ということ。「空」、そして「通り道」〜断食のイメージを通して〜

今日は食べ過ぎてしまったな…。

そう思ったら、次の日に少しばかり断食をしてみると、頭と体がスッキリと冴えて、軽やかになってくる。

「断つ」ということ。

あれこれと入りすぎている物事、手放せない物事。

試しに断ってみると、なくても意外と何とかなったりする。

むしろ、自分が本来的に持ち合わせている「何か」に意識が向き、出合い直し、新鮮さを取り戻す機会となることすらある。

断って断って断って…その先に何があるのだろう?

断食のイメージを足場にすると「空っぽ」、つまり「空」になっていく。

「空」は「無い」ではなくて「空」がある。

「空」というのは「通り道」のようなもので、地中から湧き出る湧水のように、「根源的な何か」が内側から湧き上がってくるのだろう。

そんなことを思った。

だが、なぜわれわれは、われわれにとってかれこれ数百年来にわたり熟知されてきた真理の本質に満足しないのだろうか。真理とは、今日、そしてずっと以前から、認識と事柄との一致〔Übereinstimmung〕を意味する。けれども、認識作用と、認識を仕上げて陳述する命題とが事柄に適合するためには、さらにそれに先立って事柄そのものが命題に対して結合可能になりうるためには、事柄そのものがそれ自体を事柄そのものとして示さなければならないのではないか。もし事柄そのものが伏蔵性から出で立つことができないなら、もし事柄そのものが不伏蔵的なものとして立たないなら、どうして事柄はそれ自体を示すだろうか。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

命題が真であるのは、その命題が不伏蔵的なものに、すなわち真なるものにそれ自体を合わせる〔rechten〕ことによる。命題の真理はつねにただこの正当性〔Richtigkeit〕であるにすぎない。デカルト以来、確実性〔Gewißheit〕としての真理を出発点としているさまざまな批判的な真理概念は、正当性としての真理規定のさまざまな変化であるにすぎない。われわれがよく知っているこのような真理の本質、表象の正当性は、存在するものの不伏蔵性としての真理しだいなのである。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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