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深部に意識を向けるためには、表層は適度にリラックスしている必要があるということ〜表層筋と深層筋の調和を通して〜

「深層筋を使う、ということ」

ヨガ、ピラティス、HIIT(High Intensity Interval Training:高強度インターバルトレーニングを)など、身体を動かす中で「深層筋(インナーマッスル)を使うとは一体どういうことなのか」という問いに向き合うことになる。

その問いは大きな問いで、いくつかの小さな問いに分けることができる。

「そもそも深層筋は一体どこにあるのか?」
「(場所がわかったとして)深層筋を意識的に動かすことができるのか?」
「深層筋を意識的に動かすことができたとして、どんな感覚があるのか?」

深層筋も、体幹や肩関節、股関節など様々な場所に存在している。たとえば、体幹の深層筋には、腹横筋や横隔膜、骨盤底筋群などがある。

深層筋は長時間働くことのできる筋肉で、「長時間の姿勢保持」や「体幹のブレの小さい安定した動作」など様々な姿勢や動作を支えており、加齢と共に衰えるため適度に鍛えることが肝要である。

深層筋(インターマッスル)と対をなすのが、表層筋(アウターマッスル)。

表層筋には、たとえば大腿四頭筋や大殿筋などがあり、私たちが日頃から「意識的に動かしやすい」筋肉と言える。

さて、何度も何度も反復的に身体を動かす中で、深層筋を働かせるためにはコツがいることが分かったのだけれど、何よりもまず「順番が大切」ということ。

深層筋よりも表層筋のほうが強く、「表層筋に力が入っている状態では深層筋に意識を向けることはできない」ということ。

まずは「表層筋に過剰な力が入っていない、適度にリラックスした状態」を作った上で深層筋に働きかけていくことが求められる。

深層筋という身体の部位を足場としたとき、「何かと何かの関係性において、深い部分にアプローチする」際も、表面に近い部分ではリラックスしている状態が必要なのかもしれない、と思う。

たとえば、「誰かと深い対話をしたい」とする。

「何をもって深い対話とするのか?」という問いはあるけれど、本当に大事なことは得てして語られないことがある。

少なくとも表面的にリラックスしていなければ、「もしかすると語られるかもしれないこと」も、語られる機会、可能性を失ってしまうのかもしれない。

このように振り返ってみると、私たちは身体を通して、「表層と深層」そして「緊張と弛緩」の調和を見出すことができるように思われる。

その調和の射程は自分自身の身体にとどまらず、私たち自身を取り巻く環境や世界までも広がり、そして深い対話を可能にするのかもしれない。

このように外界の存在を認めその現象を直接に感ずるのは吾人の感官によるほかはないのにその感官が頗る粗雑なものであってしかも人々箇々に一致せぬものである。それで各人が自分の感覚のみを頼って互に矛盾した事を主張し合っている間は普遍的すなわち誰にも通用のできる事実は成り立たぬ、すなわち科学は成り立ち得ぬのである。それで物質界に関する普遍的な知識を成立させるには第一に吾人の直接の感覚すなわち主観的の標準を一旦放棄して自分以外の物質界自身に標準を移す必要がある。これが現代物理的科学に漲りわたっている非人間的自然観の根元である。

寺田寅彦『万華鏡』

このように外界を標準とし外界を判断する事は何も物理学者を俟たない、誰れでも日常知らず知らずに行なっている事である。ある生まれつき盲目の人が生長後手術を受けて眼瞼を切開し、始めて浮世の光を見た時に、眼界にある物象はすべて自分の眼の表面に糊着したものとしか思えなかったそうである。こういう無経験な純粋な感覚のみにたよれば一間前にある一尺の棒と十間の距離にある同様な棒とは全く別物としか見えないに違いない。仰向けた茶碗と俯向けた同じ茶碗とが同一物である事を自得するまでにはかなり経験を重ねなければならぬ。吾人普通の感官をを備えた人間がこのような相違に気のつかぬのは遺伝や長い間の経験によって、外界の標準を外界に置いて非常に複雑な修練と無意識的の推理を経てきた結果にほかならぬのであろう。

寺田寅彦『万華鏡』

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