地面と水と大気にある意味
今日は佐々木正人さん(心理学者)が書かれた『アフォーダンス入門 - 知性はどこに生まれるか』より「地面・水・大気」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。
ギブソンが環境にまず発見したことは、地面と水と大気という三つのことにある新鮮な意味だった。つまりぼくらは独特の意味を埋め込んだ固体と液体と気体と、それらが関係することで起こる多様な出来事に取り囲まれて生きているということだ。
「固くてヒダのある地面」はまずは固いことでぼくらの身体を支え、そこの上を移動することを可能にしているわけだが、さらに、地面がぼくらに移動を可能にしているという時には、地面にある物にもともと備わっているキメのパタンのような、目や足で識別することができる意味を、ぼくらがそこで開始する移動行為が利用している。つまり地面には「移動のアフォーダンス」がある。
赤ちゃんは重力に抗する二足でのバランスをとれるようになるまでに、つまり地面と重力が一体になっている「立つアフォーダンス」を探すまでに、ふつう一年近くの時間をかける。ぼくらは老人の顔の皮膚や身体全体の変形に長い時間をかけた重力による変形を見る。それは「老いのアフォーダンス」の一つである。
移動のアフォーダンス、立つアフォーダンス、老いのアフォーダンス。
色々語られる「アフォーダンス」に触発されて、今日もまたアフォーダンスについて考えてみたくなりました。
雨の日の水たまりにある手がかり
心理学者のギブソン氏が提唱した「アフォーダンス」という概念は「行為の可能性」であり、彼は「私たちは環境中に存在している意味をそのまま取り出している(直接知覚している)」という情報抽出理論を提唱しました。
移動のアフォーダンスで述べられている「地面にある物にもともと備わっているキメのパタンのような、目や足で識別することができる意味」とはどのようなことか考えてみます。
この世界に存在する「道」は決して平坦な道ばかりではありません。坂道もあれば、凸凹がある道もあります。坂道を歩くときの歩き方、凸凹がある道の歩き方。それは決して平坦な道と同じではないはずです。
たとえば、上り坂であれば足首の角度を傾斜に合わせ、自分の身体が重力に対して同じ向き(もしくはやや前傾)にしなければ、身体のバランスを保つことはできません。
凸凹のある道では、「自分の身体が最も安定しそうだ」と想像しながら凹みの中にうまく足の位置を合わせて歩いているはずです。
足が不安定なところでは、カラダをガチっと固めるのではなく、緊張をほどいて、身体をゆらゆら揺らしながら歩くほうがスムーズに歩けたりします。赤ちゃんが「立つアフォーダンス」を探すのと逆のプロセスと捉えられるかもしれません。
あるいは、雨の日の道が私の中では最もしっくりくる事例かもしれません。太陽の光や電灯の灯が水たまりにキラッと反射する様子を見ながら、立体的に浮かび上がってくる水たまりを見つけながら、できるだけ踏まないように歩いています。慎重に。慎重に。
こう考えると「地面にある物にもともと備わっているキメのパタン」から道の特徴を感じとっています。感じとるとは、言い換えれば、踏み出す一歩の「手掛かりにしている」ということです。自分で考えているというよりも、環境が差し出してくれるヒントに導かれるのかな、という気がします。
重力は何をアフォードするのだろう
「老人の顔の皮膚や身体全体の変形に長い時間をかけた重力による変形」が「老いのアフォーダンス」の一つであると述べられています。
人が母親の胎内にいるとき、そこは羊水に満たされていて無重力に近い状態と考えると、人はこの世に生まれ出た瞬間から「重力」の影響を受け続けることになります。
立ったり、座ったり、屈んだり、寝そべったり。人は日常生活の中で色々な姿勢を取るわけですが、自分の身体の重さ(つまり重力)を身体のどこかで受け止め続けながら生きています。
屈んで作業を続けると、腰に負担がかかって少しずつ曲がってしまったり、前傾姿勢でイスに座っていると、自然と背中が丸まってしまいます。自分に働く重力が時間とともに積み重なって形が変わっていくのですね。
「重力が老いをアフォードする(与える)」という表現に、不思議な感覚を覚えます。
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