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不確実性との向き合い方。しなやかさ(反脆弱性)と台風の目。

今日も引き続き『匠の流儀 - 経済と技能のあいだ』(編著:松岡正剛)より「第1章 資本主義社会と匠たち - 社会力・経済力・文化力」を読みました。それでは一部を引用します。

 現在の社会は一言でいうと、「組織化された無責任」によって「意味喪失社会」を支えているという現状にある。これは、世の中ではたんに「リスク社会」というふうに言われているものなのだが、そうではない。実はこの見方がまちがいなのだ。現在の社会はどんなところにもリスクがあるのではなく、どんなリスクも計算してしまおうとして、見えないリスクに怯えている社会なのだ。
 今日の社会が「不確実性の社会」であることは承知しているつもりだ。まだ、多くの現象が「不確定な領域」のほうに向かっていることも承知している。だから、多くの分野で不確実性と不確定性を減らそうとしてきた。統計学や確率理論が発達してきたのは、そのためだ。
 ただし、そういうふうになったのは、われわれが観測の精度をあげようとしてきたからなのである。私が子どもの頃は明日の運動会の天気はてるてる坊主に委ねていたものだ。いまでは、明日の天気は一時間単位、あるいは一五分単位で知りたくなっている。むろん地震予測も株価予測も精度を上げるに越したことはない。けれども上げれば上げたで、その水準によって、その反映としての精度決定をしたくなる。津波のリスクを想定すれば、防波堤はどんどん高くなっていかざるをえないのだ。観測の精度を上げることと自己責任の精度を上げることが、いつしか重なってしまったのだ。
 これは本末転倒というより、適切な価値観が設定できなくなったということである。私の言葉でいえば編集力の喪失なのだ。

「〇〇のようなリスクがある」「XXのリスクを取る」

日常生活の中で「リスク」という言葉は、よく聞かれる言葉の一つかもしれない。

「備えあれば憂いなし」という言葉に表されるように、人は不確実性を極力減らそうと、リスク評価手法の精度向上のために探求を続けている。

たしかに、将来起きうるシナリオを想定して備えることは重要だと思う。備えを盤石にして、どんな衝撃も「受け止める」ように構える態度。しかし、「ありとあらゆる」シナリオを予見することは不可能に近い。それでは、「想定外の」事象が起きたときに、受け止めきれず足場が崩れてしまう。

そう考えると「受け止める」とは違う態度が必要となるかもしれない。

「しなやかに受け流す」あるいは「自ら台風の目になる」ということ。後者を補足すると、台風それ自体は途方もないエネルギーを有しているけれど、その中心部はとても穏やか。不確実性の中心に向かっていくような態度とも言えるかもしれない。

「しなやかに受け流す」というのは、想定外のことだらけなのだから、何かが起きたときに、その想定外を自らのエネルギーに変換するような態度とも言えるかもしれない。

これはナシーム・ニコラス・タレブが提唱する「反脆弱性」という概念にも通じる。「脆さの反対はなんだろう?」という問いに対してタレブは「頑丈さではなく反脆さである」つまり「変化を自らのエネルギーに変換する」ことだと。

次に「自ら台風の目になる」という態度について。

私が好きな言葉の一つに、アラン・ケイ(アメリカの計算機科学者)の「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」という言葉があるが、「自ら台風の目になる」という言葉はこの態度に近いと思う。

もちろん不確実性を評価して備えることが決して悪いとは思わない。けれど「もうこれだけ備えているのだから大丈夫だろう...」と不安を拭えないなら違う選択肢に目を向けてもよいのかもしれない。

著者は「これは本末転倒というより、適切な価値観が設定できなくなったということである。私の言葉でいえば編集力の喪失なのだ。」と述べているが「しなやかに受け流す」「自ら台風の目になる」という態度をとることで、(少なくとも自分を保つという意味で)適切な価値観を設定できるのかもしれない。

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