等価交換とは何だろう?
ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「キリスト教における<負い目の論理> - ニーチェの考え」と「原始経済における<負債>の理論 - モースとニーチェ」を読みました。
「等価交換の原則」について。一部を引用してみます。
このことから、私たちはふたつの重要な結論を導くことができる。ひとつは貨幣による<負債>であっても、それと等価な貨幣(元金+利息)で清算できない場合があるということ。もうひとつは、金銭的な<負債>は、精神や肉体を懸けた<借り>にそのまま転じて、借りたほうは身体や精神の自由を奪われる場合がある(<負債>が「支配の道具」になる場合がある)ということである。
これはすなわち、この『ヴェニスの商人』の世界では、近代経済における基本的な決まりである「等価交換の原則」が十分に成り立たず、その結果、人間関係も「対等」なものから、「支配 - 従属」の関係に転じやすいということを意味している。
実際、近代経済における<交換>は、互いに等価な物を交換することによって、対等な人間関係を保証するものである。「等価交換の原則」は、単に経済的な均衡をはかるためだけのものではなく、お互いに相手の支配から自由でいられる状態をつくるために発明されたものなのだ。
「等価交換の原則は、単に経済的な均衡をはかるためだけのものではなく、お互いに相手の支配から自由でいられる状態をつくるために発明されたものなのだ」
この言葉がとても印象に残りました。
そして同時に「等価交換とは何だろう?」という問いが浮かんできました。
「貨幣による負債であっても、それと等価な貨幣(元金+利息)で清算できない場合がある」とは、『ヴェニスの商人』の中で、ユダヤの金貸しであるシャイロックが「貸し手が借り手を支配している」ということを見せるために、借り手(アントーニオ)の命を要求したことによります。
一方、現代では何かに見合う対価を支払えば相手に「借りをつくる」ことはなく、支配されることもない。そうだとしても、そうだと分かったつもりでも、やはり「本当にそうなのだろうか」と思うところがあります。
「等価交換」という言葉からにじむのは「価値を測ることの難しさ」です。
経済活動では「需要と供給がバランスするように価格(対価)が決まる」と言われます。もちろん、そのようにして価値(対価)が決まることもあると思います。
一方、日常生活の中で「本当にこれだけしか支払わなくて良いのだろうか」と思う瞬間はないでしょうか。裏を返せばその交換は「お得」と言えるかもしれませんが、「借りができた」と捉えることもできます。
顔の見えない相手との一回かぎりの交換では「清算して終わり」ということかもしれませんが、「長く続く関係の中では、お得が借りに転じる」と思うのです。
一過性ではない持続的な関係性と「相手から奪わない」という心持ちが、「等価交換」を成立させるための前提条件となるのではないでしょうか。
「需要と供給がバランスするように決まる」というだけでは表現できない「等価のモノサシ」があるような気がするのです。