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「自ら学ぶ力」は反脆さへの入り口

昨日は『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)から「洗練された夕食の友 - 教育の本当のメリット」を読みました。

オプション(状況が悪い時は行使する必要なく、状況が良い時に行使すればよい権利)を行使するためには「理性」が必要なのでした。理性とは「判断能力」であり、一定の知識が必要とされます。それは暗黙的な場合もあれば明示的な場合もある。

一方、誤った知識を正しいと思い込んでしまうことがある。前回は「教育→富・経済成長なのか。富・経済成長→教育なのか」という問いから、知識の方向性に関して誤ることがあると学びました。

教育には、一族の収入を安定させる以外にもメリットがある。たとえば、教育は人々を洗練された夕食の友にする。このメリットは無視できない。だが、人々を教育して経済を向上させるという考え方は、どちらかというと新しい。つい50年前のイギリス政府の文書を見てみると、現代とは違う教育目的が記されている。その目的は、価値観を育み、善良な市民を作り、”学び”を促すことであって、経済成長ではない(当時の人々はカモではなかったのだ)。

少し前まで、教育の目的は「価値観を育み、善良な市民を作り、学びを促すこと」とされていた。「学びを促す」という点に注目すると、最初に学びの弾みをつけることで、あとは自ら学んでいく。

反脆さとは「衝撃やストレスを成長や繁栄に変える性質」であり、その変換プロセスは「学び」とも言えるかもしれません。学ぶとは「変化すること」でもあるからです。

その意味で「学びを促す」ためには何が必要なのかと言えば、「面白い」「もっと知りたい」と思える出来事に巡り合えるかに依存する気がします。その機会をどれほど得られるかは、資産に依存するのかもしれません。富や人とのつながり、感情などです。

当然ながら、仕事のスキルと会話のスキルをイコールとみなすのはバカげている。(中略)起業家は実践家であって思想家ではない。実践家の役割は実践することであり、話すことじゃない。だから、会話で彼らを測るのは不公平だし、間違っているし、まったくもって無礼でもある。職人にも同じことがいえる。彼らの資質は製品の中にあるのであって、会話の中ではない。

「会話のスキルが高い→仕事のスキルが高い」なのか「仕事のスキルが高い→会話のスキルが高い」なのか。あるいは関係ないのか。

会話のスキルも人に伝える機会がなければ、「わかりやすく説明しよう」と思う気持ちは必要ないでしょう。その意味で「スキルは機会に依存する」と言えるかもしれませんし、スキルの集合に還元できない「センス」も同様に機会に依存するのかもしれません。

いずれにしても、「自ら学ぶ力は反脆さへの入り口」ということなのだと思いいました。

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