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「世界」と「大地」という概念の手ざわり〜音楽における"楽曲"と"奏でる"の関係性を通して〜

哲学者マルティン・ハイデッガーによる書籍『芸術作品の根源』に登場する「世界」「大地」という二つの言葉。

二つの言葉の手触りを感じたい。

そう思ったとき「音楽」という言葉が降りてきた。

ある音楽が奏でられるとき、私たちは音楽という流れに内在する、あるいは通底する「世界」を受け取っている。

受け取られる「世界」は流動的で、音楽が奏でられるたびに変化してゆく。

その変化は、音楽それ自体、あるいは音楽に内在する世界が変化しているのではなく、世界を受け取る「私達」が変化し続けていることに由来するのだと思う。

世界は「可能性」あるいは「無限の側面」をもって開かれ続けていて、その可能性、側面の見え方が変わり続けている。

そして、奏でられる音楽に内在する「世界」は元を辿れば、記された楽譜に内在する以前に作曲家の内側で開かれている。

記された楽譜、媒体(楽器)、奏者、そして奏でられること。

それらの総体としての「大地」を通して「世界」を受け取っている。

ある楽曲が様々な奏者、楽器、時間、空間で演奏されるとき、組み合わせとして閉じられた「大地」を通して、開かれた「世界」が広がっていく。

「世界」と「大地」という概念が対になって響きあうことで「閉じながら開かれている」特徴が立ち現れる。

それは、「生命」あるいは生物における「細胞」とも重なり合っているように思う。

世界とは、歴史的な民族の命運〔Geschick〕となるような単純にして本質的な諸決定の広い軌道の、それ自体を開けている開けである。大地とは、つねに自己閉鎖し、そのようにして保蔵するものが、何ものにもせき立てられずに現れてくることである。世界と大地は、本質的にたがいに異なるものであるが、しかし両者はけっして切り離されてはいない。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

世界は大地の上にそれ自体を基づけ、大地は世界中いたるところに突出する。しかし、世界と大地の間の関係は、けっしてたがいにまったく関わりをもたない対置されたものという空虚な統一に萎縮することはない。世界は、大地の上に安らいつつ、大地をいっそう浮き立たせようとする。世界は、それ自体を開けるものとして、どのような閉ざされたものを容認しないのである。しかし、大地は、保蔵するものとして、世界をそれ自体の内に引き入れ、留保する傾向がある。

マルティン・ハイデッガー『芸術作品の根源』

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