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遊びの無限性(目的を更新し続けるということ)

ミゲル・シガール氏による書籍『プレイ・マターズ - 遊び心の哲学』を読みました。今日は「遊びと目的」について。「1章 遊び」より一部を引用してみます。

[第五に] 遊びは自己目的的である(autotelic)。つまり、遊びはそれ独自の目的を持ち、それ独自の区切られた時空間と終了条件を持った活動であるということだ。(中略)しかし、[従来の見解とはちがって] 自己目的的な遊びの境界は、厳密に定められたものではない。ゲームの世界と[それを含む] 世界全体のあいだに明確な区切りはない。遊びは、それ自体の文脈のなかでは自己目的的だが、それを何と結びつけるかは取り決め次第でどうにでもなる。
遊びの自己目的的な性格をどう扱うかは、[プレイヤー間で] つねに議論され、取り決められるものなのだ。その遊びをする目的は何か。当の遊びの活動の影響範囲をどこまで広げたいか。遊ぶという目的や個人的な表現をするという目的をどの程度まで重視するか。わたしたちは、こうした点について取り決めをしながら遊ぶのである。
遊びはそれ独自の目的を持つが、その目的は[時間的に]固定されたものではない。(中略)プレイヤーは、最初にある目的を持って遊びを始めたとしても、途中で目的を変えることができる。それは自分で変える場合もあれば、ほかのプレイヤーとの話し合いで変える場合もある。遊ぶという活動のなかには、その自己目的的なゴールを取り決めることも含まれているのだ。

「遊びに目的は必要なのだろうか?」
「遊びの終了条件とは何だろうか?」

文章を読みながら、そのようなことを思いました。

たとえば、テレビゲームやボードゲームを考えてみると明確な「ルール」が決められていて、そのルールの中にはどうなったら勝敗が決まるか、終わるのかも含まれています。その勝敗、終了(という目標)に向かってゲームが始まるのです。

逆に「終わりのない遊びは存在するのだろうか?」「遊びから終わりという概念を取り除くことはできるのだろうか?」と考えてみます。

「プレイヤーは、最初にある目的を持って遊びを始めたとしても、途中で目的を変えることができる。それは自分で変える場合もあれば、ほかのプレイヤーとの話し合いで変える場合もある」

著者のこの言葉にヒントがあるような気がしました。「終わりがない遊び」を直接的に考えるのではなく、もし遊びの目的を更新し続けることができるならば、それ「遊びには終わりが(来)ない」としてもよいのではないか、と思うのです。

では、遊びの目的を更新し続けるためにはどうすればよいのでしょうか。

ふと、「無知の知」という言葉が降りてきました。これは、哲学の父とも呼ばれるソクラテスの言葉ですが、その意味は「自分がいかに無知であることを知っていること」が重要であるということです。

自分が何かを知ったり分かると、その先にまた新しく自分が知らないことが見えてくることってあると思います。あるいは、まだ誰にも知られていないこと(世界の空白)に、気づくことがあるかもしれません。

自分が知らないこと、誰も知らないことを探求する過程は(時に先の見えないつらさに直面するかもしれませんが...)快の感情をもたらすのであれば、それはある種の「遊び」として捉えることができるかもしれません。

「知る → 知らない → 知る...」という繰り返しの無限性と、「終わりのない遊び」がどことなく自分の中で重なるのでした。

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