見出し画像

流れる水、運ぶ水、そして自他未分。

流れる水は「運ぶ役割」を担っている。

流れる水が運ぶ対象には「水それ自身」も含まれている。

物理的な対象はもちろんのこと、穏やかで清らかな川のせせらぎを眺めているうちに、いつしか気づけば私自身の心も眺めているはずの水と一つになって流れている・

とするならば「流れ」の核心は「自らと自ら以外が絡み合いながら調和的に運動していく」ことにあるように思われる。

「流れ」には「自他未分の創出」という役割があるのかもしれない。

流れ流れ流れ流れ…流れゆく。

物を浮かべて変位する水は、物を「流す水」あるいは「運ぶ水」となる。栗林公園の水は、椿を浮かべて、それを流す水であった。『栄花物語』では、「木々の紅葉の少し散りて、御前の池に浮び流れたるも……」と、紅葉を静かに運ぶ水の美しさを歌っている。流水の変位は、認識的な段階では、「空間を結ぶもの」や「無限なるもの」としてイメージされることがある。

鈴木信宏『水空間の演出』

盆の流し灯籠は、流れの変位にたくして、精霊をあの世へと送り届ける。『大和物語』では、龍田川を流れ下って来る紅葉に、川上の神無備の三室の山の時雨を連想している。また『源氏物語』は、長雨に水かさを増して流れ来る川の水に、上流の遠く離れた里に住む人を思っている。これらの例では、流れる水は皆、二つの空間を結ぶものとしてイメージされている。

鈴木信宏『水空間の演出』

見えないところから現われ、流れ来て、再び見えないかなたへと流れ去る水は、「無限なるもの」を指向する。C・ムーアは、こうした水に着目して、水空間の設計における次のような原則を提示している。「流れる水は、非常に遠い、あるいは無限のかなたから流れて来るがごとくに設計すべきである。しかし、水が近くに来たる時には、水との親密な接触を計るべきである」と。

鈴木信宏『水空間の演出』

いいなと思ったら応援しよう!