「進歩する」とはどういうことだろう。
E・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第二部 資源」より「第五章 人間の顔をもった技術」を読み進めています。
今日は「成長と進歩」について。一部を引用してみます。
ふるさと派の基盤は、猛進派の人たちとは違う人間観である。猛進派は「成長」を信じ、ふるさと派は信じないといえば、それはきわめて皮相である。ある意味では、成長を信じない人はいない。そして、成長は生命の本質である以上、それが正しいのである。しかしながら、問題の核心は成長の概念を質的に限定することにある。というのは、現実には、あるものは成長しなければならないが、同時に退行していくべきものも多いからである。
同様に、ふるさと派があらゆる生命の本質的な特質ともいえる進歩を信じていないというのも、考えが浅い。問題は、何が進歩かを決定することにある。ふるさと派は、現代技術のこれまでとってきた方向 - それは自然界の調和法則をいっさい無視して、際限なく大きな規模と高速度と暴力を指向している - は退歩であると信じる。だからこそ、現状を見直し、目標を立て直すべきだと主張しているのである。見直しによって、人類はその生存の基盤を掘り崩していることがわかるが、方向の切り替えは、人間の生命とは何かを思い起こすことから始まる。
「問題は、何が進歩かを決定することにある」
この言葉がとても印象的でした。
著者のシューマッハは、人類の将来を左右する二つの対立した態度を「猛進派」と「ふるさと派」という2つのグループとして対比しています。
猛進派は「立ち止まっていれば倒れてしまうから、前進しなければならない。現代技術には欠陥はなく、ただ不完全なだけであるから完成させよう」という態度を表明し、「技術革新により人類の危機は避けられる」と信じるグループです。
ふるさと派は「新しい生活様式を模索し、人間と環境についての基本になる真理へ立ち戻ろう」という態度を表明するグループです。
「進歩するとは、どのようなことだろう?」
このように問いかけたとき、どのようなことが思い浮かぶでしょうか。
「できなかったことができるようになる」
「分からなかったことが分かるようになる」
「気付かなかったことに気付くことができる」
例えば、このようなイメージでしょうか。
いずれにも共通するのは「未知から既知へ」ということです。
人類の歴史を辿ると、自然の摂理(原理)を既知化し、その原理を「技術」として日常の生活の中で応用してきました。「もっと便利にしよう」という精神性がそこにあります。
技術は「制御可能なもの」として立ち現れてきたとすれば、「進歩」という言葉には「制御」つまり「コントロールする」という感覚が結びついているような気がします。そして「生活が便利になる」ことと「豊かであること」の距離が近づきすぎて離せないところまで来ているような気もします。
問題の核心は成長の概念を質的に限定することにある。というのは、現実には、あるものは成長しなければならないが、同時に退行していくべきものも多い。
成長は生命の本質だけれど、同時に「退行」する。「退行」という言葉は、ニュアンスがつかみにくいのですが、次のように問いかけてみるとどうでしょう。
「便利だと思っているけれど、逆に不便なことはないだろうか?」
この「便利すぎて不便」ということに目を向けようという著者のメッセージが「退行」には含まれているように思います。
方向の切り替えは、人間の生命とは何かを思い起こすことから始まる。
(不老不死が実現しない限りは)人は生まれた瞬間から成長、そして老化を経て、やがて死に至ります。この一連のサイクルが「人間の生命とは何か」という問いから思い浮かぶのですが、この「老化」という言葉を「成熟」と置き換えたいです。
経済と社会は一体不可分なのだから、経済成長を追い求めるだけではなく、「成長を経た先の成熟した社会」の姿を考えたい。そのように思いました。社会が成熟しているか否かの判断軸は「その社会は生命的か?」ということなのかもしれません。