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身体と分からなさに耐える力(ネガティヴ・ケイパビリティ)〜空気、押し寄せる感情、感覚の変化を身体になじませてゆくこと〜

「空気を、感覚をなじませる」

新しい環境に飛び込むとき、未知に出会うとき。

清々しさなのか、あるいは戸惑いなのか、明確には割り切ることの難しい、割り切ることのできない、様々なグラデーションの感情に包まれる。

「不確実性、分からなさ、答えの出ない状況などに耐える能力」を「ネガティブ・ケイパビリティ」という。

「ネガティブ・ケイパビリティ」という言葉の輪郭をつかみたいと思ったとき、未知の場の空気を、自分に押し寄せる感情あるいは身体感覚の変化を、少しずつ確かめながら「なじませてゆく」ことなのではないか、と思う。

それは例えるならば、熱いお湯に、あるいは冷たい水に少しずつ少しずつ、ゆっくりと身体を慣らしながら浸かることにも似ているかもしれない。

あせらずに、ゆっくりと、時間をかけて。

それは様子見をすることでもあるかもしれないし、自分自身と対話を重ねることかもしれない。

あぁ…いま自分は緊張しているんだな…。少しずつ呼吸が楽になってきたな…。

身体に起こる変化の観察を通して、誰もが自分と対話することができる。

身体は常に「分からなさに向き合うヒント」を与えてくれているのかもしれない。

あとは、その微かな声に耳を澄ませてゆくだけ。

呼吸が止まらないように、じっくりと、時間をかける。

絶対とか窮極の真理とかいうものの存在を信じてそれを得ようと努力する人はこの点で第一に科学というものに失望しなければならない。科学者はなんらの弁証なしに吾人と独立な外界の存在を仮定してしまう。ただし必しもこれを信じる必要はない、科学者が個人としてこれ以上の点に立入って考える事は少しも差支えはないが、ただその人の科学者としての仕事はこれを仮定した上で始まるのである。もっともマッハのごときは感覚以外に実在はないと論じているが、彼れのいわゆる感覚の世界は普通吾人のいう外界の別名と考えればここに述べるところとはあえて矛盾しない。

寺田寅彦『万華鏡』

外界の事物の存在を吾人が感ずるのは前述べたとおり直接間接に吾人の五感の助けによるものである。これらの官能が刺戟されたために生ずる箇々の知覚が記憶によって連絡されるとこれが一つの経験になる。このような経験が幾回も幾回も繰返されている間にそこに漠然とした知識が生じてくる。この原始的な知識がさらに経験によってだんだんに吟味され取捨されて個人的一時的からだんだんに普遍的なものに進化してくるとこれが科学の基礎となる事実というものになるのである。しかるにあらゆる経験の第一の源となる人間の五感がどれほど鋭敏でまた確実であるかという事はぜひとも考えてみなければならぬ。

寺田寅彦『万華鏡』

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