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ほんの少しだけ緩めてみる、ということ〜限界は突破するでも、乗り越えるでもなく、通り抜けるものなのかもしれない〜

「ほんの少しだけ、緩めてみる」

ヨガに取り組んでいて思うのは、「限界を超えよう」として過剰に緊張すると身体は本来のしなやかさを失って、「いつも」のほんの少し先の可能性に手が届かなくなってしまうということです。

逆に、身体のしなやかさを損なわない範囲で挑戦し続けていると、いつしか「限界を超えられるかもしれない」「手が届くかもしれない」という予感がしてくる。

「もうこれ以上は無理だ…」という極限状態の中で挑戦を重ねてゆくことが決して無駄だとは思いません。

そのような経験が糧になることもあるはずです。

「限界」という概念に対して「境界線」のイメージを当てはめるとすれば、その境界からほんのわずかに内側で、全体の隅々にまで意識が広がっている実感のある範囲で、試行錯誤を重ねてゆく。

ほんのわずかの内側の、その「ほんのわずか」が境界へ限りなく近付いて、ふとした瞬間の「ゆらぎ」あるいは「偶然性」に導かれて境界の先へと至る機会が訪れる。

限界に対しては「突破する」とか「乗り越える」という言葉があてられますが、量子力学におけるトンネル効果のような一定の確率で「通り抜ける」というイメージのほうがじつは近いのかもしれません。

トンネル効果は、非常に微細な領域で発生する現象であるため、我々が直接知覚することはできない。また、古典力学では説明することができず、量子力学により取り扱う必要がある。例えば、ポテンシャル障壁に向かっている粒子を、丘を転がり上がるボールに喩えて考えた時、古典力学においては、障壁を乗り越えるだけのエネルギーを粒子が持っていない限り、粒子は障壁の向う側には到達できない。つまり、丘を乗り越えるだけのエネルギーを持たないボールは、途中で止まり丘を転がり落ち戻っていく。別の喩えを用いれば、壁を貫通するだけのエネルギーを持たない銃弾は跳ね返されるか、壁の中で止まる。ところが、量子力学においては、ある確率で粒子は障壁を貫通する。(中略)このような違いは、量子力学における粒子と波動の二重性に起因する。

Wikipedia

身体を「ほんの少し緩めてみる」ことは、「粒子的な身体」を少しばかり「波動的な身体」に近づけるようなものかもしれない。

もちろん、量子力学が取り扱うのは「極微の世界」における物理だけれど、身体のイメージが拡がってゆくことで「肉体」や「身体」という制約の中での「自由の手ざわり」を感じることができるように思える。

水のイメージは主観的な観念である。したがって一個人が想起する水のイメージは、個人的経験の差や、その時の気分によって、あるいは社会的または歴史的な特殊要因によって、様々な種類に及ぶであろう。ところが、水のイメージは、物理的要素と人間との間に行われる相互作用の産物である。したがって、物理的要素が持つイメージ要因としての秩序がはっきりすればするほど、そこに人々が共通して一般に想起するであろう水のイメージは、かなりの確かさを持って予想することができるはずである。すなわち、特定の物理的要素は観察者の心理反応の方向を指し示し、すなわち指向し、そこに感情移入や、知的意味の認識を行ない易くする働きを持つと考える。

鈴木信宏『水空間の演出』

そうした物理的要素の把握の仕方は、知覚的把握による。ただしそれがごく一般的な場合に限って、認識的な把握をも採用する。物の認識的把握とは、物の部分の知覚に、観察者の持ち合わせる知識を重ね合わせることによって、それとは同時に知覚し得ない他の側面、または知覚範囲を越える全体に対する知識獲得の作用を指す。これに対して、物の知覚的把握とは、現象そのものを知覚することによってもたらされる、物の特徴に関する知識獲得の作用である。

鈴木信宏『水空間の演出』

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