「適正な規模」は、どのように決まるのだろう。
E・F・シューマッハ(イギリスの経済学者)による書籍『スモール・イズ・ビューティフル - 人間中心の経済学』の「第一部 現代世界」より「第五章 規模の問題」を読めています。それでは、一部を引用してみます。
規模の問題は、次のようにもいえよう。この問題で忘れてはならないのは、ものごとを弁別し、より分けることである。どんな活動にも、それにふさわしい規模というものがある。その活動がはげしく、親密さを必要とするものであればあるほど、それに参加する人の数は少なく、グループの数は多くなっていく。
教育を例にとってみよう。在来の教育の方法と、教育機器を使う方法との優劣が、さかんに論議されているのを耳にする。そこで、この問題を弁別してみよう。何を教えようとしているのかという疑問を出してみると、ある教科はごく少人数の組でしか教えられないが、他の教科はラジオ、テレビ、教育機器などを使って大勢に教えられるということが、すぐわかる。
これまで述べてきた巨大信仰というものは、とくに輸送と通信における現代技術を生んだ原因であろうし、また明らかにその帰結でもあった。高度に発達した輸送・通信体系は、一つの甚大な影響を及ぼしている。それは人間を故郷離れさせているということである。
「親密さを必要とするものであればあるほど、それに参加する人の数は少なく、グループの数は多くなっていく」
グループの規模が大きくなればなるほど、一人ひとりと接する機会を持ちにくくなることは確かだと思います。それに対する解の一つが「グループを細分化して束ねる」ということでした。
同時に、「本当に人と接する必要があるのは、どのような時だろうか?」という問いが浮かんできます。
「ある教科はごく少人数の組でしか教えられないが、他の教科はラジオ、テレビ、教育機器などを使って大勢に教えられる」
著者が取り上げた「教育」は、とても分かりやすい事例のように思います。
最近では、YoutubeやCourseraなどで、様々な教育系コンテンツが無料配信されており、学ぶ意欲さえあれば誰でも学ぶことができます。時間と場所を超えて、一対多の関係が成立しています。しかも、コメント欄に質問を投稿し、本人から回答をもらうような双方向性もあります。これはこれで、一つの「接する」の在り方のように思います。
また、オンラインツールを使えば時間と場所を問わず、誰とでも気軽に顔をあわせることができるようになっています。規模が拡大すると双方向的なコミュニケーションが減少する、その一因となっていた「時間と場所の制約」が技術進歩によって少しずつ取り除かれてきています。
一方、「じっくり時間をかけて接したい」という気持ちは誰もが持っているもののような気がします。もちろん相手にもよるのかもしれませんが。自分が所属する集団の規模が大きくなったとしても「一人ひとりの顔が見える」状態でありたいものです。
「人間を故郷離れさせている」という著者の言葉は、都市の肥大化に対する皮肉のように思えました。たくさん人が集まっているのに、お互いが誰だか分からない。故郷ではお互いに顔の見える関係があったが、それが失われている。
都市や集団、あるいは国家。
適正な規模とは、はたしてどのように決められるべきものなのでしょうか。