"もろい"(fragile)の反対は何だろう?
今日から『反脆弱性』(著:ナシーム・ニコラス・タレブ)を読み進めます。
昨日まで『植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命』を読みながら、様々な環境に適応的に進化して生き延びる植物の「しなやかさ」を学びました。
「しなやかさ」を下支えするのは①周辺環境から多様な情報を集める高感度の感覚器、②集めた情報を統合して状況を把握し、自らを変化させる適応力、そして、③モジュール構造(明確な臓器を持たないため致命傷がなく、どこからでもやり直せる)です。
本書のタイトルである「反脆弱性(antifragile)」とは、植物の「しなやかさ」そのものではないか。全体をサッと一読して感じたことです。反脆弱性という視点で物事を、世界を眺めることができたら。そのような期待を胸に読み進めていきたいと思います。
「しなやかさ」は「強さ」と「やわらかさ」をあわせ持つ言葉。語感が心地よく、口にしたくなる言葉のひとつです。この言葉から、つい竹を連想するのですが、竹は「しなる」といいます。雨風にさらされたときの竹は、風に耐えているというより、風を受け流しているように感じられます。
「しなやかさ」と「しなる」に共通する「しな」という響きが、飄々とした様子、軽やかに進んでいく様を想起させるのは気のせいでしょうか。
反脆弱性としなやかさは共通項を感じるわけですが、著者は「反脆弱性(antifragile)」という概念について次のように紹介しています。
衝撃を利益に変える。ストレスにさらされると成長・繁栄する。このような姿勢は、植物の適応能力に体現されているように思うのです。
衝撃やストレス。それらをどのように捉えているでしょうか。できれば避けたいもの、さらされたくないもの。あるいは適度に必要なもの。捉え方は様々だと思いますが、いかがでしょうか。
たとえば、ふだん何気なく歩いているわけですが、歩いているときに足には衝撃がかかっているはずです。ストレスにさらされています。その状態が続くと足が疲れてしまうわけです。一方、歩かない状況が続くと足の筋肉が衰えてしまい、自ら歩くことが難しくなってしまうかもしれません。
これは一つの例ですが、何かを保つ・維持するためには「適度な」衝撃やストレスが必要なのだということ思います。そのような制約を課された身体は「不便」なのでしょうか。あるいは、「身体を使う必要性にせまられる」という意味でじつは有益とも言えるでしょうか。
反脆さは、じつに様々な事象に当てはまるようです。あげられていた事例を見て、反脆さは「進化」の前提条件なのではないか、という気がしました。
自ら変化を作り出すのか、あるいは変化にさらされるのか。いずれにせよ、自分に降りかかる出来事を推進力に変えていくわけです。
反脆いものはランダム性や不確実性を好む。
この言葉を読んだときに、自分の日常生活の中でいくつか当てはまることがありました。たとえば、毎朝、Youtubeに投稿されている大学受験の数学の問題を解くのが日課になっているのですが、投稿される問題は毎日、分野が異なります。つまり、ランダムなのです。
自分から問題を探しにいくと、つい「解きやすそうな問題」を探してしまいがち。それは選択の偏りを意味します。ランダムに投稿される問題に取り組むことで、自分の「好き・嫌い」というフィルタ、バイアスを取り除くことができていると感じます。結果、多様な分野にふれることができて、知識や工夫の幅が広がっているように思います。
また、自分の身体は「ランダム」や「不確実性」にみちあふれていると感じます。かれこれ10年ほどヨガに取り組んでいますが、同じポーズを取っても毎回自分の身体の状態が違うので、バランスが取りにくい日もあれば、取りやすい日もあります。だからこそ、面白いのです。
日々の調子に一喜一憂することなく「今日はこういう状態なんだな」と俯瞰して、その日の状態の中でベストを尽くす。
書籍『武器になる哲学』で取り上げられてた「報酬」という概念で、「人は不確実な物事ほどハマりやすい」と書かれていて「そうかもしれない」と思ったのですが、最初から帰結が予測されている物事、決まっている物事は飽きてしまうのが人なのかもしれません。
「日常生活にランダムを取り入れてみよう」
「日常生活に存在しているランダム性を見つけてみよう」
反脆弱性(antifragile)という概念をさらに深掘りたいと思ったのでした。