贈り物をするのは、他者の力を借りるため?
ナタリー・サルトゥー=ラジュ(哲学者)の著書『借りの哲学』の第1章「交換、贈与、借り」より「モースの『贈与論』」を読みました。
「返礼の義務」について。一部を引用してみます。
実際、モースによると、「全体的給付体系」には、三つの義務がある。「贈り物を与える義務(贈与の義務)」、「贈り物を受け取る義務(受領の義務)」、「贈り物にお返しをする義務(返礼の義務)」である。そして、この三つの義務を拒否すれば、争いの種になったり、あるいは義務を果たさなかった不名誉を受けることになるのであるが、このうち、最も強制力があったのは、「返礼の義務」であったという。
<贈与>を受けたら、それは<借り>になり、返さなければならないのである。「返礼」を通じて、<贈与>は交換される。<贈与交換>と呼ばれる所以である。この<贈与交換>において、もうひとつ大切なことは、<贈与>を受けた<借り>は返さなければならないが、そのときに返されるものは、もらったものと等価ではないということである。つまり、そこでは「等価交換の法則」が成り立たないのだ。
では、そもそも人はなぜ<贈与>をするのか? モースはこのように説明する。「物を与えるとき、人は自らを与える。そして、どうして自らを与えるかと言えば、それは自分と自分の財産を他人に負っているからである。」
すなわち、人はひとりでは生きてはいけない。生きていくためには、他者の力を借りなければならない。だからこそ、贈り物をするのである。
「すなわち、人はひとりでは生きてはいけない。生きていくためには、他者の力を借りなければならない。だからこそ、贈り物をするのである」
この言葉が印象的でした。
『贈与論』で有名なマルセル・モース(フランスの社会学者、文化人類学者)は、メラネシア、ポリネシア、アメリカの先住民など、いわゆる「原始的な民族」とされる人々の宗教、社会、経済を研究していました。
「贈り物をするのは、他者の力を借りるため」なのでしょうか?
贈与・受領・返礼の3つの義務があり、中でも返礼の義務が最も強力であるとされる社会。義務を守らなければ、共同体には所属することができない。つまり他者の力を借りることなく生きてゆく他ない。だから返礼を行なう。
返礼の義務は徹底していて、返礼することができないときには、さほど高価ではない物を贈ることによって、贈与されたままになっている借りを返すのを待ってもらうことまでする。
そのような社会の中で、贈り物は目的なのか、あるいは手段なのか。
自分から贈りたいわけでもないのに贈らなければならない。そのような状況において「贈る」という行為は成立するのでしょうか。
贈り、受けとる。
返礼がなくとも、変わらない関係性を保ち続けることができるのであれば、「贈与の論理」が「負債の論理」に変わることがないように思うのです。
では「返礼がなければ、変わらない関係性を保ち続けることができない」とすれば、それはなぜなのでしょうか。
考えたい問いがまたひとつ。