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「フロー」に入ると「レンマ的知性」が働きはじめるのかもしれない。

話をしていると、時折、頭の中で次々に別の事柄が浮かんできて、正確にはある事柄と事柄同士の間で思いもよらない結びつきの連鎖が始まる時があります。無意識的に連鎖し続けてゆくので、そういう時は「フロー」状態に入っていると言えるかもしれません。

ある事柄と事柄が結びつき始めると、話しているそばから次々に起こる結びつきを言葉にしたくなり、フローに言葉が追いついかなくなってしまうことがあります。次々から次に浮かんでは弾けてゆく泡のような、新鮮な結びが解けてしまう前に言葉にしたい気持ちなのです。

そんなとき、頭の中は複数の事柄が互いに交わり合いながら、いくつも並走している感覚があるのですが、一方で言葉で語ろうとすると出口となる口は一つしかないので、行き詰まってしまうのです。

今まさに自分の内側に広がっている、次々に見出されてゆく星座のような、奇跡的な軌跡をそっくりそのまま表に映し出せたらいいのに…。

複雑な事柄を解きほぐして整理して並び替え、論理構造が首尾一貫した言葉の並び、つまり文章として表現することは、受け取り手による解釈の差異を可能なかぎり縮めてゆく意味で大切な営みだと思います。

一方、言葉にするという営みには、言葉にした瞬間に抜け落ちていく何かがあって、抜け落ちるというのは、その何かを「受け止める器」としての言葉が見つからなかったり、浮かんでは消えていってしまう「儚さ」に似ているかもしれません。

何とか浮かび上がる言葉をひろい集めて書き留めて、あとから見返してみると、あとから足りない言葉が見つかる時もあれば、見つからずに点と点の間の線が途切れてしまうこともあります。でも、それでよいのです。ふとしたきっかけでまた同じ連鎖が始まることもあります。「あれ…前にも同じ事を思ったような…」としても、それでよいのです。

中沢新一氏による書籍『レンマ学』で述べられていることを再確認すると、理性は「ロゴス的知性」と「レンマ的知性」の2つから構成されていて、前者は古代ギリシャ哲学以降、西洋哲学で重視されてきたのに対し、後者は仏教など東洋哲学において重視されてきた背景があります。

最後に引用した言葉にあるように「ロゴス的な知性を用いて現実をとらえようとすると、あまりの複雑さに知性はお手上げになってしまう」というのは「フロー」する状態を思い浮かべてみると自分事だという実感が湧いてきたので、思うところを綴ってみました。

レンマは「ロゴス」と対比される。ロゴスはギリシャ哲学でもっとも重視された概念であり、語源的には「自分の前に集められた事物を並べて整理する」を意味している。思考がこのロゴスを実行に移すには、言語によらなければならない。人類のあらゆる言語は統辞法にしたがうので、ロゴスによる事物の整理はとうぜん、時間軸にしたがって伸びていく「線形性」を、その本質とすることになる。

中沢新一『レンマ学』

これにたいしてレンマは非線形性や非因果律性を特徴としている。語源的には「事物をまるごと把握する」である。ここからロゴスとは異なる直観的認識がレンマの特徴とされる。言語のように時間軸に沿って事物の概念を並べていくのとは異なって、全体を一気に摑み取るようなやり方で認識をおこなう。仏教はギリシャ的ロゴスではなく、このレンマ的な知性によって世界をとらえようとした。

中沢新一『レンマ学』

しかし、このロゴス的な知性を用いて縁起によって生起し全体運動している現実をとらえようとすると、あまりの複雑さに知性はお手上げになってしまう。そういう場合に備えて、人類にはレンマ的知性が用意されている。「全体をまるごと直観によって把握する」別の知性を働かせるのである。直観によって全体を把握できるブッダ的ないしシャーロック・ホームズ的知的能力である。

中沢新一『レンマ学』


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