「見えているようで見えていないもの」を見る
今日は佐々木正人さん(心理学者)が書かれた『アフォーダンス入門 - 知性はどこに生まれるか』より「光のネットワーク」という一節を読みました。一部を引用してみたいと思います。
そして光である。ギブソンは「生態工学」というオリジナルな光学を生涯をかけて考えだした。(中略)それは動物がそこで意味を探せる光についての理論である。
まず最初にある光の事実は「発光源からの放射」である。電灯でも、太陽でも、たき火でも、ろうそくでも、熱をおびた物体はエネルギー線を発する。(中略)しかしカメレオンなどの例外はあるものの、大部分の動物の眼には分光の働きはないので、この「情報」を利用できない。だから放射光は大部分の生きものには情報にならない。光が情報になるためには、放射する光が、環境の表面を構成している物の、無数の微細な構造に出会い、種々の方向に散乱させられる必要がある。
つまり、見えの根拠が、ぼくらの眼や頭の中にではなく、照明の構造にあり、ぼくらがしていることは、その中を動きまわってそこにあらわれる情報を探ることであるならば、ぼくらには他者といつでも知覚を共有する可能性が残されていることになる。個人が見ていることと、集団が見ていることとの境界も越えられる。こんなふうに、光の集合にはじまる光学は「意味の個人主義」を越える。
「ぼくらには他者といつでも知覚を共有する可能性が残されている」という言葉がとても印象に残りました。
経験がだれか一人のことで、それは他者と分かちもたれないという説を哲学では「独我論」といいますが、独我論とは真逆の主張です。
今回の節を読みながら、私がプロのデザイナーの方と運営している読書会のアイスブレイクを思い出しました。具体的には「最初の10分間で自分の手や身の回りの物をデッサンする」ということをやっています。
毎回、参加者の皆さんのデッサンでのこだわりを紹介していただく中で、「この方にはこのように見えているんだ」と感心しますし、プロのデザイナーの方のデッサンを見ると、今にも紙の中から飛び出してきそうな、躍動感あふれる描写でとても感銘を受けています。
デッサンを見続ける中で、プロのデザイナーには「存在する特徴・らしさが無数に見えている」と気づきました。「たしかにこんな傷ある」とか「たしかにここは光が当たっていない」といいう、肌理(光)の捉え方の解像度が違うのです。見えているから描ける、ということなのです。
「観察する」といいますが、これは2つのミル(観る・察る)を重ねた言葉と考えると、観るは「裏側の背景」を探る、察るは「ありのままを感じる」ということ。
何かを見るとき、特徴的な部分にサッと注目して終わってしまうこともあるように思います。見る位置を変えてみたり、距離を変えたりして、見え方の違い(光の集まり方の違い)に含まれる情報を一つでも多く捉えること。
「見えているようで見えないもの」を見るためのヒントをいただきました。
そして、光の構造にあるモノの情報が既に埋め込まれている(=情報は自分が受け取った刺激に基づいて、自分の内部で生成されるのではない)としたら、「見えているか見えていないかの違い」だけであって、私たちは他者といつでも知覚を共有する可能性が残されています。
「私は他者と同じものを見ている」ということが、他者とのつながりを築く手がかりになるような気がするのです。
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