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レンマ、直観、そして身体性。

「私たちは、言葉に出来るより多くのことを知ることができる」

この言葉は、マイケル・ポランニー(物理科学者・社会科学者・科学哲学者)が「暗黙知」に関して表現したものです。私はヨガに取り組んでいるのですが、不思議とこの言葉が身体になじむように感じられるのです。

ゆっくりと時間をかけて、身体の隅々にまで行き渡る「鮮明と曖昧の間」に位置するような感覚を探ってゆく。身体の全体性、調和を取り戻してゆく。特定の部分に意識が向いたり、感情が言葉として響いた瞬間、その他の多くに関する理解は損なわれてしまうように思われるのです。

だからこそ、意識や言葉を手放し、身体の過度の緊張を手放してゆく。それは「自然体」に回帰してゆくような営みでもあるのかもしれません。

楽器を演奏している時も同様の感覚です。練習では言葉や意識などを通じた解釈、理解を経て楽譜に書かれた内容を身体化していくわけですが、本番となると思考や言葉を抱えながら演奏することはむしろ、「音楽という流れ」さらに言えば「全身の協調、連動性、調和」を妨げてしまいます。

ゆえに「細部に集中する意識を手放す」ことが必要で、その上で「自分自身と楽器を一つに包み込む」ように、さらには「自分や舞台、客席までを含む空間全体を包み込む」ような感覚へと移行する必要があるように感じます。

心身の状態や、楽器の状態等にも左右されるので毎回毎回がそのような感覚に至れるとは限らないのですが、そのような感覚を得られた時には「没入」「夢中」という言葉がしっくりきます。このような状態に至れるかどうかもう「ご縁」という他ないのかもしれません。

中沢新一氏による書籍『レンマ学』を読み進める中で感じたことを綴ってみました。「ありのままをありのまま直観する」ことが希少であり、とても大切なことだなと感じます。

古代ギリシャでは理性という言葉で、二つの意味が同時に言われていた。一つは今日でも認められているこの言葉の通常の用法、すなわち「事物をとりまとめて言説化する」という意味であるが、そこにかつてはもう一つ別の意味が加わっていた。それは「直観によって全体をまるごと把握し表現する」という意味である。前者は普通に「ロゴス」と呼ばれたが、後者には「レンマ」という別の呼び方が与えられた。理性には「ロゴス的な知性」と「レンマ的な知性」の二つの知性が共存しているのである。

中沢新一『レンマ学』

西洋では伝統的に真理を思考するために、このうちの「ロゴス」の面がもっとも重要視され、そのうちに理性といえばこの意味での「ロゴス」ばかりが用いられるようになった。ところが東洋では反対のことがおこった。「レンマ的知性」こそが理性本来のあり方であって、「ロゴス的知性」はそこからの不完全な派生体と考えられたのである。そこでは知的建築をおこなうための基底材として「レンマ的知性」が用いられ、それによってさまざまな学がうちたてられた。ここから東洋に特有な多様な文化的達成がおこなわれたのである。

中沢新一『レンマ学』

大乗仏教がその最高の達成を示している。大乗仏教は全体が「レンマ的知性」によって貫かれている首尾一貫した巨大な宇宙をつくりだした。それによって大乗仏教は人間理性の完成された状態を実現しようとしたのである。この大乗仏教の発展の初期における高度な産物が『華厳経』である。この仏典では純粋状態にある「レンマ的知性」の活動をあらゆる方面から探究し尽くそうと試みられている。

中沢新一『レンマ学』


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