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自然とゆらぎ〜わからないことがあるのだという感覚を基本にした方がうまくいく?〜

3日ぶりにヨガのレッスンに足を運びました。

大抵の場合、数日間が空くと身体が縮こまって窮屈に感じてしまうのですがなぜだか今日は関節周りもほどよく柔軟性があり、伸びやかに身体を動かすことができました。

良い意味で予想を裏切られると、自分の身体は本当によくわからない…と思うと同時に、同じような事象が続くとあたかもその事象が普遍的であるかのように感じてしまうのだな…と思います。

ゆらゆら、ぐらぐら。

身体はゆらいでいて、定まっていない。その中で、部分のちょっとした変化が身体のつながりの中で増幅されて全体に大きな影響を及ぼすことがある。

不安定の中の安定。安定の中の不安定。

何が起こるかわからない要素がある物事、関係性というのはなぜか続きやすいような気がします。

人工物は、論理で組み立てられたものです。コンピュータの難しい理屈を、私は十分理解しているわけではありませんが、それを考え出した人には隅から隅までわかっているのでしょう。機械の中ではある原因があれば、必ずそれに見合った結果が出ます。そこで人工物に囲まれる現代社会では大きな誤解が生まれてしまいました。すべてはわかる、あらゆるものには答えがある、とくに科学はすべてをわからせるものだけという誤解です。

中村桂子『生命誌とは何か』

実は、生物を含む自然はそうではありません。ですから生物技術を開発したり、使ったりする時にも、機械の場合と同じような感覚をもっていたら過ちを犯す危険性があります。最近は、人工物も非常に大型化・複雑化・高度化しているので、思いもよらない事故という言葉をよく聞くようになりました。更には、大きな地震が起きるとか、環境に影響を及ぼす廃棄物を出すとかいうように、人工物が人工物だけで独立しているわけではなく、自然と関わり合っていることから起きる問題も目立つようになりました。むしろわからないことがあるのだという感覚を基本にした方が、うまくいくのではないかと思います。

中村桂子『生命誌とは何か』


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